小説

『冬のウェルテルは片目を閉じて口ずさむ』柘榴木昴(『若きウェルテルの悩み』)

2016.6.6
 今日、職場に、ナントカ氏が、あいさつに来た。私の心臓は凍りついた。実際とまらなかったのが不思議なくらいだ。彼は講義中の婚約者を待っていた。
 スタンダールは恋敵に中庸なしと言っていたが、これは正鵠を射ている。私も悪寒と敵意しかなかった。
 重苦しさと脈の低下を感じた。活動という活動は静まり視野は急速に狭まった。不意に自分を俯瞰している気になった。男があいさつに回る。薄い青色のダブルスーツに灰色のシャツ。黄色いネクタイ。私は自分の持っていた黄色いネクタイをすべて捨てようと思った。
 こんなにも不運とは暴力的だったか。不幸とは必ず終わる耐え忍ぶだけの時間と重圧ではなかったか。侮辱を込めた弾丸で頭部と心臓と明日を撃ち抜かれたような衝撃だった。
 私は彼が職場の扉を開けた瞬間から感じてしまったのだ。この男だと。そして丁寧にあいさつに回る彼が私の前に着た瞬間、私は蘇生した。彼は私を殺すと同時によみがえらせたのだ。
 私はさも上機嫌を装い、「ユウコ先生にお似合いの好青年じゃありませんか。お噂はかねがね」とか何とかいったものだ。既にこのとき、私は自殺したも同然だった。心臓を心の爪でかきむしった。
 私とどう違うのだろうか! 
 何がこの男を選択させ、私を脱落させたのだろうか!
 急速に彼女のしっとりとした肌が、あたたかな体温が、優しくも華やかな香りが灰色に凍りついた。
 のぼせ上ったこの恋敵は私に尊敬の念を持っている。私もまた、好青年だと感じたのは嘘ではない。
 では、彼女からの距離は――私を奪い、彼に奪われたという差分はどこから生じたのか!
 いっそあらゆる点で私の格上であってくれたらよかったのに。完膚なきまでに私を凌駕する男であればよかったのに。体つきもセンスも知性も、どれも群を抜くものはない。おもわず特技や資格を聞き出しそうになった。今の今までまったく嫌悪しかなかったこの婚約者に対して、初めて嫌悪以上に興味がわいた。これは本当に、この男は本当に値するのか。私以上に彼女を愛することができるのだろうか?
 できないだろう。だが、それが明白となっても私にできることはもうない。
 彼女の意志を曲げることはできなかった。彼女は旅行の終わりに、この恋の終わりも予感させたのだ。彼女を何より大切に思う男がいる。それとは別な男と暮らすことがなぜ幸福になろうか。その答えは簡単なことだ。結婚は幸福になるためではない。不幸にならないためにするものだ。
 私との不適切な関係は、それだけで不幸なのだろう。
 私が選択しうる彼女にとっての最善は、もはや消えるのみだった。

 

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