小説

『冬のウェルテルは片目を閉じて口ずさむ』柘榴木昴(『若きウェルテルの悩み』)

2018.12.23

 恋のはじまりは常に手遅れだ。
 それは取り返しのつかない感情が自分を支配するという意味でも、相手にとって自分はふさわしくないと脳内で繰り返しささやかれるという意味でもそうだ。
 すでに劣情は私の背後にあって、いつしか私の芯まで入り込んだ。それで、もう自分の意志なんてものはすっかり壊れてしまう。恋の支配下にあっては誰もが衝動で動き、感情で進み、恥とためらいでひたすら串刺しになってその場に倒れる。
 恋は呪いだ。最も厄介な類の呪いだ。違いがあるとすれば、呪いは解けるかもしれないが、恋は解かれたくないのである……。

 自分の気持ちを誰にも打ち明けないかわりに、彼女から言葉をかけてもらえるなら、こんな文書はすぐにデリートしてしまうだろう。でも誰にも見られるはずのないこの文書を残すことは、私にとって唯一残された身の証なのだ。
ゲーテ曰く、「汝の人生は実行また実行であれ!」
 ドイツ文学を愛する私は無論ゲーテの格言によって心を打ってきた。だが一人では決して錬成できない感情があるのだ。それが恋愛というものだと、恋心に背後を取られるまで気付けなかった。実行が破滅に結び付くとき、死のロンドから耳をふさぐことは罪だろうか? それは誰にとっての罪か? 
 『若きウェルテルの悩み』は片思いによる悲恋の最高峰だろう。この主人公ウェルテルの叶わぬ恋の決着は、ウェルテルの拳銃自殺で幕引きとなる。
 私はウェルテルと自分を重ねたりしない。ただ、重なる部分はある。人より少しばかり頭が良かったり、人の心を客観視する癖があったり、薄暗い景色を好んだり。だが一方でウェルテルとロッテ嬢を通じて私は自殺の無力さを知った。今生から消えた者は必ず忘れられていく。自殺の直後は確かに恋しい人に意識を独占できるかもしれない。だが相手に婚約者、あるいはよき夫がいたとしたら。
 忘れないにしたって自殺した人物像は勝手に純粋で悲しい罪の広告塔になり、それはやがて錆てしまう。
 わかっているのだ。私も、いや、ウェルテルもそうだったのかもしれない。
 先にこの文書を残すことが身の証だと記した。この文書は私自身のために書いている。誰にも開かれないこのフォルダに、あの人には届かないこのフォルダにそっと全てを告白することは、形に残すけど意味を残さないというこの告白は、私の恋の結晶なのだ。表面だけではわからない整然とした幾何学構造。

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