小説

『時の流れ』広瀬厚氏(『浦島太郎』)

「竜宮からもどった浦島太郎が玉手箱のふたを開けず若いままに生きながらえて今この日本にいるのです。そして…… 」
 ここまで話して敬一は、早くも考えに行きづまった。そしてまた軽く咳払いをしてから続けた。
「失礼ながらちょっとこの先は今のところ話せないのですが…… ま、とにかく奇想天外で面白い舞台になること間違いなしと、私はこの胸に自信を持っております」
「そうですかそれは楽しみです。それではあまり時間に余裕がなくて大変申し訳ありませんが、この件劇団不可思議さんにお願いすると言うことで、澤田さんよろしいですか? 」
「ええ喜んでお受けいたします。さっそく稽古やら何やらと忙しくなりそうです。確かにあまり時間はありませんけど安心してお任せください」

 公演の日時は日に日に迫ってくるのに、稽古どころか脚本もほとんど出来上がっていない。脚本はいつも敬一が書いている。そして卓が演出をする。古いビルのなか借りたせまい一室、ふたりは焦りに眉を曇らす。時間がない。時間がほしい。
 焦れば焦るほどに進み、待てば待つほどに進まないのが時間である。実際にこれほど曖昧なるものはない。今と言うことを考えてみてもそうだ。今と思うときそう思った今はすでに過去にあり今思わんとする今は未来にある。過去が未来に転ずる一瞬が今だと言うが、どうあがいてみても今を捉えることは出来ない。現在が曖昧ならば過去も未来も曖昧だ。その曖昧かつ極めて抽象的なる時間を細かく切り刻んであくせく動く、現代人は時間の奴隷であると言っても過言でない。
「ちょっと気分転換に散歩にでるよ。ひょっとして良いアイディアが浮かぶかもしれないし」
「ああわかった。ほんと時間がないんだから、頼むぞ」
「だな…… 卓ちゃんも考えてみてくれ」
「そうだな。とにかく何とかしなきゃな」
 卓をおいて敬一はひとりビルを外にでた。ビルの前の道を忙しなく車がいきかう。神経にさわるクラクションの音が街に響いた。急ブレーキにタイヤがアスファルトをすべりキキーッと音を立てた。
「急いでんだ、もたもた走ってんじゃねーよ! 」と怒鳴り声がした。
 人に余裕を与えるべく発明された文明の力は、ことごとくと言って間違いないほどに、人を急かせ結局、余裕を奪う。
 敬一が何か良いアイディアはないものか、ぼんやり歩道を歩いていると、後ろから早足に抜きさる人の肩と肩が触れ、チッと舌打ちする音がした。「はぁ」とため息が彼の口をでた。
 ちょっと散歩になんて言ってビルをでたものの、なんだか無性に海が見たくなった敬一は駅の改札をくぐり電車に乗った。電車は混んで座れなかった。乗車口のきわに立った。 乗車口の窓から景色が流れた。今、太郎は日本のどこで何をしているのだろう、と彼は思った。そして今のこの日本を、どう思っているのだろうと考えた。
 車窓からはごみごみとした窮屈な絵ばかりが流れていった。それを目に敬一は、急に今の生活に大変辟易してきた。それなりにやりがいを持ってやっている劇団の活動さえも馬鹿らしく思えてきた。いっそ今回の話も正直に、「出来ません。浦島太郎の話のことは話受けたさに、あの場で亀の甲を見てでっち上げたまったくの出鱈目です」と、頭を下げて謝ってしまいたい。しかし契約のことを考えると、それは非常にまずい。敬一は車窓から目を足元に移し、うな垂れたまま車輪とレールの音を耳に、時間のなかでたたずんだ。

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