小説

『金魚姫』宍井千穂(『人魚姫』)

「失礼ながらあなたの願いは、あの教室に行かなくて済むことだと思いました。そこで、この薬の事を思い出したんです。魚になってしまえば、もう学校に行く必要はありません。あの人たちに、これ以上傷つけられることもないんです」
 愛美やクラスメイトの顔を思い出す。あんなところにはもう行きたくない。傷つかなくて済むのなら、魚になったって構うもんか。小瓶に手を伸ばしかけたところで、金魚が一段低い声で話し始めた。
「……ただ、この薬には副作用があります。人魚が美しい声と引き換えに足を手に入れたように、あなたにも代償を支払ってもらわなければなりません」
「何を支払えばいいの?」
 金魚は一拍置いた後、まっすぐに私を見つめた。
「人間としての命です。どんな生き物も、陸の世界と水の世界、両方で生きていくことはできません。ですから、魚として生きるのであれば、人間のあなたは死ぬことになります。もちろん、周りの人たちにも死んだと思われます。今ある生活を全て捨てて魚になる覚悟があるのなら、お飲みください」
 そんなの、もう答えは決まってる。このまま生きてたって、死んでるのと変わらない。私は金魚から小瓶を受け取って、中身を全部飲み干した。少し塩辛い味を感じた瞬間、私は完全な闇に包まれた。

 強い光を感じて目を開けると、そこは自分の部屋でも真っ暗な空間でもなかった。視界一杯に深緑の苔と水草が映る。呼吸をするたびに、小さな泡が上に吸い込まれていく。体を横に振って水の中を進むと、すぐにガラスの壁にぶつかった。目の前には見慣れた教室の光景が広がっている。
 私は、金魚になっている。それも、教室の金魚に。
 慌ててあの金魚の姿を探すが、狭い水槽の中には私一人だけだ。ガラスの壁が四方から迫ってくるようで息苦しい。何もできずにただ教室の様子を眺めていると、先生が入って来てホームルームが始まった。いつもより表情の硬い先生が、低い声で話し出す。
「えー、今日はホームルームの前に、一つ残念な知らせがある。実は、今日の朝、水谷朱莉が亡くなった。どうやら夜のうちに心臓麻痺を起こしたようで、そのまま……」
 騒がしかった教室が、一瞬で静まり返る。時が止まったような空間で、最初に静寂を破ったのは愛美のすすり泣く声だった。
「水谷さんが死んじゃったなんて、そんな……」
 愛美の泣き声につられて、ざわめきが波紋のように広がっていく。中には愛美のようにしゃくり上げる声まで聞こえてくる。

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