小説

『鬼の定義』藤井あやめ(『桃太郎』)

一斉に会場は静まり、人々はMCの声に耳を傾けた。あれだけ大音量で盛り上げていた店内の音楽ですら、今はそっとその姿を消した。
MCは簡単な自己紹介を済ませると、観客の期待を裏切らない進行を続ける。
「今宵はClub Peachにお集まりいただきまして、誠にありがとうございます。選ばれし皆様でこの素晴らしき日をお祝いしましょう!美しく偉大なお方!歴史を変えたあの方!」
<彼>を称える人々の声が、大きく空間を押し上げた。
「お呼びしましょう、ハッピーバースデー!桃太郎!」
HAPPY BIRTHDAY!と大きくスクリーンに写し出され、後方入り口にスポットライトが当たる。拍手と歓声が巻き起こり、<彼>がその優美な姿を現した。
<彼>のテーマソングを、DJはきびきびと歯切れよく流し始める。
先程エントランスにいた猿、犬、キジが<彼>を囲み、ボディーガードをする中、前方ステージへゆっくりと進む。誰も<彼>の道を塞がない。しかし、並んだピンクの群衆が桜道のように茂りだす。絶え間なく注がれた女子達の吐息が、周囲の酸素を甘く変えた。

「桃太郎さま!おめでとうございます!」
「よっ!日本一!」
「桃さまー!」
黄色い声も立ち上ぼり、彼の一挙一動が人々の興奮する体を刺激する。
ステージに置かれたビロード張りの王座に辿り着くまで、<彼>は自身の風格を漂わせ、上質な香りを群衆の鼻孔に残していく。

ステージに到着した<彼>に、MCがそっとマイクを手渡すと、歓声はより大きくなった。
丁寧にマイクを口元に預け、<彼>によって吸われて吐かれる息さえ、喋りだす言葉の前座となる。

「…ありがとう。…こうやって桃の香りに包まれると、生まれた時を思い出すよ。」
ゆっくりとした言語が、マイクを通してフロアに響く。
まるで神からの言葉でも聞くように、ある者は目を魚卵のように輝かせ、ある者は<彼>の全てのパーツも見逃すまいと浮足になり、また、ある者は口を結び熱い涙で頬を濡らした。

「今夜は心も体もPeachに埋もれて楽しんでほしい。全てを忘れて盛り上がろうぜ!」
<彼>の最後の一言が口火となり、盛大な歓声が地響きを起こした。

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