小説

『マドロシカは三度眠る 』篠崎フクシ(『眠る森のお姫さま』)

 吸蜜しようとわたしの雌蕊に近づく送粉者と対峙して、彼は激高した。追い払おうと、ブンブン腕を振る。しかし蝙蝠は彼の非力な腕の動きを嘲笑するようにヒラリと躱(かわ)し、空中浮揚しながら蜜を狙った。
「ぼ、僕のマドロシカには、何人たりとも指一本触れさせない。彼女の白い花弁も甘い蜜も、絹糸のような雌蕊も、すべて僕のものなんだ。ねえ、そうだろう? マドロシカ」
 荒い息の彼の眼には、狂気の色が滲んでいた。明らかに正気を失っていた。わたしは、もういいの、もう、あなたはそんなに苦しまなくてもいいのよ、と伝えてあげたかった。
 けれども、ああ、彼が蝙蝠と諍いを起こしているうちに、わたしはまた、眠くなる。あの、瞼が重くなっていく感覚が襲ってきて、意識が遠のいていく。わたしは薄れゆく意識の隙間から彼の横顔を見た。月明かりの下で、蝙蝠とたたかう彼の非力な姿はどこか滑稽だった。
 ふふふ……、思わず笑みがこぼれる。
「ありがとう、さようなら」
 丸い月の下でわたしはしぼみ、やがて項垂れ、次の目覚めまでの永い眠りに落ち込んでいった。

✳︎

 月から眺める地球の姿は丸く、そして碧く輝いていた。デコボコした月面のクレーターは灰色で冷たく、生気を感じられなかったが、地球は約三十八万キロメートルも遠く離れているのに、生気に満ちていた。死んだ岩と違い、それは生きているように感じられた。
 乗り棄てられた宇宙船の窓から、わたしは地球を眺めていた。ここにはもちろん酸素などないが、意識だけになったわたしは、自由に動き回ることができた。空を飛ぶことのできる鳥類よりも、わたしはさらに自由だった。
 世界に時間などなかった。
 世界は、わたしにとってわたし自身だった。
 わたしはもはや何者にも規定されない存在だった。思念、というものすら霧散してしまいそうなほど、記憶は薄れ、自我が薄弱になっていた。わたしという存在は世界と融けあい、今、という点だけが連綿と続いていくのだ。
 だからもう、眠る必要もない。
「……、カ、……シカ」
 誰かがわたしの手を握り、呼びかける。
 聴覚だけでなく瞼の感覚も甦る。花弁を開くように、わたしはゆっくりと自身の瞼を開いた。久しぶりに、物理的な重みのある光を感じる。暗い宇宙に浮かぶ地球の明るさをあれほど感じていたはずなのに、新しい光は現実味を帯びていた。
 ぼんやりとヒトの顔が浮かび、やがてはっきりとしてきた。
「信じがたい。論文で読んだことがあったが、脳幹が生きていたとはいえ、遷延性意識障害……、植物状態の患者の恢復に立ち会えることができるとは……」

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