小説

『蛇が睨む』篠崎フクシ(『蛇』)

 時が止まったような気がした。
 雨音も、聞こえない。
 髪の長い彼女は、俯き加減でWの言葉を聞いていた。しかし、うんともすんとも言わず、少し微笑んだだけで、こげ茶色のローファーに履き替えた。それから、何ごともなかったかのようにWの横を通り抜けた。
 背後の扉の裏で見ていた俺の前で、彼女は傘をさす。丸く広げた傘布は、鮮やかな紫陽花色だった。彼女が、あの蛇なのだろうか。俺は蛇に射すくめられたように、じっとその美しさに見惚れていた。
 その時、彼女は俺を睨みつけて、言った。
「嘘つき」
 俺は羞恥のあまりただ立ち尽くし、逃げ出すことすらできなかった。
 そうだ、彼女は知っていたのだ。俺の本心を知っていたのだ。ずっと押し殺してきた、彼女への気持ちは、Wに遠慮して口に出すことすらできなかった。俺は自分に嘘をつき、Wにも彼女にも嘘をつき、ついにその欺瞞が露わにされてしまったのだ。
 雨はいっそう烈しく降った。
 やがて彼女の後ろ姿は、水煙のなかに消えていった。まるで、漱石の謎解きにつきあわされる読者のように、俺は蛇の不可解な言葉と彼女のそれを二重写しにしていた。彼女の紫陽花色の傘が消えゆくのを見つめながら、俺は自身の愚かさを嗤った。

1 2