小説

『出鱈目』広瀬厚氏(『平凡』)

「五十年⁉︎ 五十年経ったら俺は百だ。生きていられるかも分からない。あっ、そうか」と私は手を打った。
「あれか玉手箱か、きっと時間を封じ込めちまうんだな。五十年が三分ぐらいの感覚で竜宮城に着いちまうとか」
「いやいやそれは御座いません。五十年は五十年であります。ですから、さあ太郎さん急いで参りましょう」
「お前よう、急ぐったって亀の歩みについて行くんだろ。バカバカしいやめだやめだ」
「あっ、そう、行かない。行かないんだな。根性なしめ、ああ分かったよ、もう行きたいって言っても絶対連れて行ってやらないよ。勝手にしやがれ篦棒めっ! そんなんだからいつまで経ってもお前は駄目なんだよ。何も出来ず、何にもなれないままに、ジ・エンドよ! な、 五郎」
 最後に亀は、五郎と私の名を呼んで、そっぽを向いた。急にヒヤリした私は「か、亀さん」と亀の後姿に手を差掛けようとした、刹那消えた。「コラー誰だあっ! 」民家から激しい怒声。私は一目散に走って逃げた。
 これっぽっちの脇目もふらず、私は必死こいて走った。一心不乱に前へ前へと逃れた。こんなに一生懸命になって走った覚えは、もう何十年とない。多分小学生の時以来だ。どこをどう走ったのかまったく知れない。兎に角私は走った。走って走って走った。そしてもう走れないとなり、ついに止まった。中腰で膝に手をつき上半身を支えた。こうべを垂れ、ゼエゼエやって息をした。
 少しして、激しい息もだいぶんと落ち着いて、私は顔を上げ、周りを見渡し驚いた。「どこだここは? 」まったく知らない場所であった。「ここはどこだ? 」もう一度考える。いくら私が必死に走り走ったと言えど先の場所からそれほど遠くへは来ていないはずだ。言わば地元。「こんな場所など有ったっけ? あっそうだ! どこかに住所が記されてないかい? 」と一歩、前に踏み出そうとした時、右手のほんの狭い空き地の前に立つ、見なれぬ標識が目にとまった。
〈ADVENTURE〉緑色の丸い標識に白く英語で書いてある。
 冒険。この標識は冒険がどうだと知らせておるのか。ただ緑に白くアドベンチャーでは何が何だか要領を得ない。第一こんなちっぽけな空き地の中、冒険などあるはずがない。まったく出鱈目な標識だ。けしからん。それより住所だ。私は止まったままの足を前へ踏み出した。すると耳にニャーと聞こえた。空き地の中に猫がいるのか? けれどそれがどうした。私が先へ行こうとするとニャーニャー執拗に鳴き始めた。何だ? と、つい踵を返し、空き地に一歩入った途端。
 私はひとり密林ジャングルのなかにいた。どこからかガォーッ! と猛獣の唸り声が聞こえてくる。野獣野鳥の鳴き声にジャングルがざわめいている。
 はてはていったい何なんだ? と私は辺りをぐるり見渡した。当たり前だが出口入口どころか道もなければ標識もない。東西南北まったくわからない。わかったところで何ともならない。困った。非常に困った。私は茫然自失その場に立ちつくした。立ちつくす私の目の前に突然、大蛇がとぐろを巻いて木の上から現れた。私はまた必死に走るのはめとなった。
 熱帯雨林で非常に熱くてたまらない。私はシャツを脱ぎ捨て上半身裸となった。喉がカラカラに渇く。水が飲みたい。このままでは干からびてしまう。ひとり私はジャングルをさまよった。

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