小説

『唇』金谷沙織(『草枕』)

 唇のなくなった彼女は、両手で口元を覆い、高く細い声で叫び、かと思うと低い呻くような声を出したりしながら、地面に転がりました。しかし、いくらあの神聖な唇が切り取られたと言え、それは自業自得です。あまりの騒がしさを哀れに思い、「大丈夫。あなたは幸せ者だ」と言い、顔を殴り、なるべく服を汚さないよう腹を蹴り、顔を何度も何度も踏みつけました。弱い力ながら、最初は抵抗していた彼女でしたが、涙と血と靴の裏の泥とで顔や手はぐちゃぐちゃになり、なお蹴り続けていると、やがて大人しくなりました。僕は彼女が着ているワンピースのボタンを一つ一つ丁寧にはずし、脱がせると、自分の鞄に入れました。そしてポケットから唇を取り出すと、ぽってりを失わないように左手をお椀型にしてそおっと乗せ、右手でつまんで表に返しました。そして暫し、観察しました。彼女の唇は今、色味が抑えられてはいるものの、形状や質感はやはり素晴らしいもので、みずみずしく、少し傾けると血が滴ってしまって仕方ありませんでした。一部を持つと、もう片方に重そうに傾いてぽたぽたと中身が落ち出てしまうのです。しょうがないので、すぐに縫うことにしました。彼女の裁縫箱をもう一度拝借し、細めの針と赤い糸を取り出すと、かなり苦戦しつつも、なんとか縫合することができました。しかし目の前にある唇を見ていても、怒りは収まりません。そこで、この苛立ちを沈めてもらうために、僕は用のなくなった彼女を置いて、地図を片手に喫茶店に向かうことにしました。しかし地図がなくてもいいくらい、その喫茶店はすぐに見つかりました。
「いらっしゃいませ」
 大きな扉を勢いよく開けると、カランカラン、と鐘が鳴って、年相応の、しかし乾燥や荒れなどのない清潔感のある唇を持った初老の男性が、笑顔で出迎えてくれました。僕は入り口近くの席に案内され、早速こう切り出しました。
「紅茶を淹れてもらえると、伺ったのですが」
 バッグからこの間買った『happy』の小袋を取り出して、店員に渡しました。
「はい。池田さんのところのお紅茶ですね」
 小袋を見るなりすぐ、返事が返ってきました。そういや僕は彼女の名前を知りませんでした。が、別に不自然なことはありません。だって、知る必要があるなんて思わなかったのです。話に聞いていたとおり、店内は落ち着いた雰囲気でした。午後九時前にも関わらず、店内は上品そうな客でほとんどの席が埋まっています。僕は、店員が「少々お待ちください」とこちらから離れて行くなりすぐに席を立つと、お手洗いに入り、先程のワンピースに着替えました。そして先程の唇を取り出すと、唇のちょうど口角のところ、両端に針で糸を通して輪っかをつくり、かたく結びました。その輪っかをマスクのようにして耳にかけて、鏡を覗き込みます。完璧な縫合ではありませんでした。糸と糸の隙間から滲む血液を指で全体に塗り広げます。すると赤く可愛らしい唇になってきました。僕のもとの唇は残念なことに、薄く貧相な具合なので見事に隠れて、本当にいい感じです。
 僕はそのまま席に戻り、花柄のテーブルクロスの上にそっと手鏡を置くと、うつむくようにしてじっと鏡を覗き込みました。そこには百パーセントの唇を持ち、それをさらに引き立てるワンピースを着た僕がいました。これぞ、完璧でした。暫く酔いしれていると、ふいにあの店と同じ、甘ったるい香りがしました。
「お待たせ致しました。これは、スミレが多く配分されたお紅茶ですが、ラズベリーのような香りも致しますよね。『happy』は、大切な人に楽しんでもらいたい、幸せの気持ちをお裾分けしたい、分かち合いたいからっていう気持ちで、ブレンドされているそうですよ」

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