小説

『唇』金谷沙織(『草枕』)

「基本的に夕飯は家族と家で食べることになっているんです。ただ、今はせっかくの機会なのでわがままを言わせてもらっていて、夕方から夜までここに居るわけなので……」
 ああ、あっさりと断られてしまいました。しかしそのあと彼女は思いもよらないことを言ったのです。
「閉店の時間まで本当はもう少し……うん、あと少しあるんですが、今日はもう、お店、閉めてしまいます。すぐ準備するので、表で待っていていただけますか」
 あまりに予想外のことで、「あ、ああ、はい」とかマヌケな返事をしてしまいました。そして彼女はにっこりと微笑むと「適当なところで待っていてください」と裏へ消えてしまったのです。ただ、あのバカでかい裁縫箱をそのままにして行ってしまったので、せっかちさんだなあと思いながら、どうしていいか迷ったものの、明日も学校で必要なのかもしれないし、持って外に出ることにしました。

 外はすっかり暗くなっていて、お店の中とは違う、本当の冷たい暗さでした。階段に座って彼女を待って五分程、お待たせしました、と聞こえて振り返ると、そこでまた僕は衝撃を受けたのでした。
「あれ……」
「サイズ、少し大きいですかね」
 そう照れくさそうに笑う彼女は、確かにあのワンピースを着ているのですが、僕の知っている彼女とは明らかに違っていました。あの魅力的な唇がなくなっていたのです。僕の大好きだった唇はどこへ行ったのか?いつも塗られていた真っ赤なリップの代わりに、そこにはぼやっとしたヌーディカラーだかなんだかよくわからないリップが施されていたようでした。僕はなんとか冷静さを保とうとしました。が、無理でした。自分の顔が引きつっているのがわかります。
「あはは、お兄さん背高いし、イケメンだし、お店の外で会うとなるとまた違って、なんだか緊張しちゃいます。なんかね、友達の彼氏はみんな茶髪で、髪長くて、私としてはありえないんですけど、お兄さんは黒髪短髪だから……、いいなぁ、なんて……あっ、いや、すみません、気にしないでください」
 外に出たことで普段のモードに切り替わってしまったのか。もう一切魅力を感じませんでした。早口でべちゃべちゃと喋ち散らかす彼女は、とても下品だとさえ感じました。あの神聖な唇で、こんなに汚く喋るなんてことは絶望的にはしたなく、次第に彼女の動かす唇が見るに耐えなくなり、思わず視線を逸らしました。それでも聞こえてくる声が、あの唇でつむがれるものだと思うと吐き気を催しました。そしてなんだか、いらいらしてきました。あの唇がふさわしい女はいなくなってしまった。あの唇がない。魅力的な、真っ赤な唇。唇への侮辱、冒涜を犯し平然としている彼女は、僕がなんとかしなければいけないと思いました。
「階段だと、背が近くなりましたね」
 彼女はそう言うと僕より二段上の階段から、ほぼ同じ身長となった僕の方をじっと見つめ、僕のシャツの裾をつまみ、それからゆっくりと目を閉じました。彼女からそうしてくれると思わなかったので、僕は素直に、従うことにしました。僕は彼女の裁縫箱から速やかに裁ちバサミを取りだすと、左手の指先で彼女の唇をつまみ、軽く引っ張り、右手に持ったハサミを彼女の口元にあて、一気に力を籠めました。ひんやりとした刃の冷たさに思わずびくっとした彼女が目を開けたのと、ジョキリという音が静かな夜にやけに大きく響いたのは、同時でした。色味のあまりない、ぽってりとした唇が地面に落ち、僕はすぐに拾い上げ、ポケットに入れます。

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