小説

『唇』金谷沙織(『草枕』)

 彼女は少し戸惑ったような顔をしたので、僕は彼女を納得させるべく、できるだけゆっくり話し出しました。
「昨日、君と話しているとき、女の子が入って来ただろう。あのあと、僕はなぜだかとてつもない胸騒ぎがして……どうしてか、ついさっき、わかった。あの時僕は、潜在的に、このワンピースだけは買われてはいけないって、気が狂いそうなくらい、思っていたんだ。ほら、見て。この清楚で上品な薄桃色の生地も、襟元にあしらわれたくすんだレースの色合いも、君の白い肌と赤い唇に、とてもよく似合う」
 ぼくの推測は、正解でした。君の唇はこのワンピースを着て、完璧になれるのです――……僕はレジから向かって左の壁に掛けてあったワンピースを手に取ると、彼女の顔の近くに持って行き、合わせました。が、そのときうっかり、ハンガーを持った僕の右手の指先が、君の唇に触れてしまったのです。君は途端に顔を真っ赤にして一歩下がると、僕を見つめました。僕は軽く微笑み、そして一万円札を三枚、レジに置きました。と、そこで僕はあることに気がついてしまったのですが、それには彼女もほぼ同時に気がついたようでした。
「ご、ごめんなさい。大切な商品なのに、気付かなかった……」
 ワンピース、腰の部分に付けられた飾りボタンが、二つ、取れかけていたのです。
「大切な人へのプレゼントなので。今、直せる?」
 彼女は慌てた様子で、こくこくと二回頷くと、慌てて奥へ一旦引っ込み、そしてまたすぐ、戻ってきました。手に、それはそれは大きな、裁縫箱を持って。あまりの大きさに、嫁入りでもするのか?と思いましたが、彼女が蓋を開けたときに見えた中身は、やはり立派な道具一式が揃っているようでした。僕の視線に気づいたのか、
「あの、これは、被服の高校に通っているのでいつも持ち歩いていて……。今年入学したので、何が必要なのかとかまだよくわかっていなくて」
と、頬を一層赤らめ、焦って彼女は言いました。なるほど、あの唇を持つ女に相応しい、しおらしい態度だ、と僕は強く思いました。
 気がつくと彼女は、目の前でメモ用紙に、器用に地図を描いていました。
「素敵なお洋服をくださったお礼に、その、これじゃ満足されないかもしれませんが、私のとっておきの場所をお教えしたくて」
 そう言って微笑むと、彼女は手際よくメモを四つ折りにして僕に手渡しました。
「おうちで自分で淹れる紅茶もいいんですがこのお店を出て右に行くと、一つ目の角に喫茶店があるんです。そこの店主さんは持って行った茶葉でも淹れてくださるんですが、淹れ方がプロ中のプロで……、そこでいただくお紅茶は、おんなじ茶葉のはずなのに、格別なんです。店内のゆったりした音楽も相まって、ほっとしますよ。落ち込んだときや、いらいらしたときも、一瞬で至福の時です」
 僕は少し考えました。一時の沈黙が流れます。そしてこう提案しました。
「その、君は、お休みの日はないんですか。叔父さんが帰国してからも、休日はここで働いているのでしょう。平日はもちろん、学校だし……。君の言う喫茶店に、僕はぜひ君と行ってみたいし、君のブレンドした紅茶を、君が飲む姿をじっと見ていたい。その時には今日あげたワンピースを着て来てくれると最高だね」

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