小説

『ただこれが愛じゃなかっただけ』柿沼雅美(『チャンス』)

 え、シャワー、と思って恵理衣の顔を見ると、さっと上半身を起こして、髪を耳にかけ、立ち上がった。僕がぼんやりとしているうちに、恵理衣は風呂場へ入って行った。
 もっと喉に炭酸を突き刺したい気分だったけれど、酔っぱらってしまったらもったいない気がして、恵理衣が横になった形にシワが寄ったベッドに乗って正座をした。ジーンズでシーツが汚れてしまう気がして脱いだほうがいいか迷って、脱いでおくのもダメかと思ってベッドの淵に足を投げ出した。急に暑さを感じて冷房の風量を強くした。カーテンをぴったり閉めた。ベッドの枕元に転がっている恵理衣のバッグを机にそっと置いた。
 どうしたものかとそわそわしながら僕は上半身だけベッドにもたれた。こんなことがあるんだと思った。英太のおかげで、思いもよらないチャンスが巡ってきた。
 「ごめんね、勝手にシャワーあびて」
 ドアを開けた恵理衣は、バスタオルでもバスローブでもなく、さっきと変わらない洋服姿だった。顔もすっぴんじゃないようだ。
 「えっと、あ、じゃあ僕もシャワー浴びようかな」
 パンパンとベッドのシーツを無駄に叩いて上半身を起こす。
 「え、なんで?」
 恵理衣がかがんで冷蔵庫を開けて、サワーを取るかと思ったらペットボトルの水を手にした。
 「なんでって、ほら、僕も汗かいてるし」
 「あーライブってすごい汗残るよねやっぱり。ライブ後の余韻も引いてきたし、早く帰ってもいいよ」
 ん?と思う。僕はもうシャワーを浴びる気満々なのだ、それに泊まったっていいくらいだ。
 「スマホ鳴ってた?」
 恵理衣は僕に構わず、机に置いたバッグからスマホを出した。恵理衣は顔どころか髪も濡れていない。
 「あ、鳴ってんじゃん!っていうか、来た!来たよほら!英太から!打ち上げ終わったって。ね、英太って地図読める人?っていうかホテルの名前言えば分かるかな、下まで来れると思う?」
 ん?と思う。
 「なんで?」
 「なんでって、英太が打ち上げ終わったらちょっとごはんでもって言ってくれたじゃん。それが今なんだってば!」
 マジで連絡してきたのか、っていうかそんなことある?ちょっと芸能人なのに一般人の女の子に連絡するとか無しじゃないのか、いや、僕の友達だから別なのか、と頭の中がぐるぐるまわる。
 「ホテルの2つ隣のビルまで来てくれるって」
 「そう、それはなにより。それよりほんとにシャワーあびたの?」
 僕が聞くと、なにそれ?という顔をした。
 「だって汗かいたカラダのまま英太に会うのイヤだし。あ、顔と髪?化粧一回落とすとまた一からやるの大変なんだよね、髪も、シャワーあびで化粧直しちゃんとすればいつも通りでしょ?」
 たしかにいつも通りだと見えて、僕は、うんと答えた。
 「じゃあ、ほんとありがとうね!ほんっとサトケンのおかげで今日は最高の夜になりそうだよー。気をつけてね」
 僕は、は? え? なに? と恵理衣に聞き返す。

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