小説

『誰』沢田萌(『河童』)

 森が僕と日常を切り離した。
 そもそも河童なんてこの世に存在するのか分からないけど、僕はその得体の知れない生き物を釣ろうとしていた。
 なぜ釣ろうとしているのか、伝説の生き物に対する憧れなのか、それとも怖いもの見たさなのか、その理由は僕にもわからなかった。
 沼には太古の昔、荒々しく生きていた恐竜のような古木が、朽ちた枝を空に向かって伸ばして沈んでいた。ユラユラと水に漂う水草が彼の自由を奪っていた。
 苔みたいな色をした沼は濁っていて、河童が沼のどこに潜んでいるのかわからなかった。僕は釣り糸に河童の好物の胡瓜を括り付けて、奴がいそうな所をめがけて投げ込み、暫くするとポイント変えて、また釣り糸を投げ込むといった作業を繰り返していた。
 もうどれくらいこうしているだろう。
 釣れるのは木の枝や葉っぱばっかりだった。
 僕は大きく欠伸をしながら空を見上げた。
 木々の形に切り取られたラピスラズリ色の空が見える。
 空を音もなく形を変えながら白い雲が流れていく。
 もう永遠に同じ形の雲を見ることはできない。
 夏の終わり。
 ふりそそぐ蝉の鳴き声、濃い緑の匂い、吹き抜ける風に秋を感じる。
 僕は悲しい気持ちになった。
 「釣れますか?」
 振り向くと河童が立っていた。
 えっ!僕は声にならない声で叫んだ。驚きのあまり声が出ない。体も動かなかった。
 河童は全身緑色で頭のてっぺんに灰色の皿があって、鳥の嘴みたいな大きな黄色い口をして、目は白い部分が全くなくて真っ黒なアーモンド型をしていた。
 妖怪図鑑で見たのとまったく同じだ。
 釣ろうとしていた河童が、僕の目の前に突然現れた。しかも、知り合いみたいに声を掛けてきた。信じられない!僕は夢をみているのだろうか。
 河童が僕をジッと見ている。
 「何を釣っているんです?」
 まさか河童です、と、言えなかった。
 ちょっと沈黙があって、また河童が僕に話し掛けてきた。
 「餌は何です?」
 「胡瓜」

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