小説

『ただこれが愛じゃなかっただけ』柿沼雅美(『チャンス』)

 「いや、僕も行くでしょ? 英太と会うんでしょ? 僕が英太の友達だよね? 分かってるよね?」
 「いやいやいやいや、サトケンくーん、そこは気づこうよ。ってか、英太もサトケンがいるとは思ってないと思うよ。げんにほら、私に連絡来てるわけだし」
 そうだ、考えてみたらこういう場合は僕のほうが優先されるべきなんじゃないのか、なんなんだこの二人は一体。
 「じゃあ僕は駅に向かうことにするから一緒に外まで行けばいいじゃないか」
 「いやいやいやいや、ここホテルよ? 一緒に出たら一緒に泊まってると思われかねないじゃん? それに…」
 僕は、あぁそうかたしかに、そうなのか、とうなだれたまま部屋を出るしかなかった。
 カードがないから二度と戻ってこれないエレベータに乗り、自動ドアをぬけて外に出た。大通りには車が多く通っていて、不思議と寂しさは感じなかった。寂しい夜というのはきっとこんなもんじゃないんだろ、と言い聞かせた。
 少し先に、帽子を被った細身の男が立っていて、英太だとすぐに分かった。僕はそっちには向かわずに目の前の横断歩道を渡った。僕は今日はライブに来ただけだ。
 横断歩道を渡って振り返ると、恵理衣がホテルから出てきて、小走りで英太のほうに向かって行った。交差する足のリズムに合わせてスカートがまた太腿までめくれている。
 そうして、それだけだった。
 チャンスだったはずの僕は家につくまでの道で、考えた。
 それに、と言ったあとに恵理衣が話していたのは、10年前から今日みたいな日をずっと待っていたこと。大学に入って、ゼミで僕と一緒になったときに、英太の同級生だとすぐに分かったこと。SNSで昔のクラスメイト、とひと言だけ書いたのをずっと覚えていたらしい。いつか必ず、英太と友達になる、できれば女としてみてもらう、そういう意志でずっと英太を好きでいたんだと話した。
 すなわち、恋はチャンスに依らぬものだ。一夜のうちに妙な縁やらふとしたもののはずみやら、チャンスを感じることが2つ3つと重なって起きても、ある強固な意志のために、愛が成立しないということの例証である。
 ただもし英太と恵理衣が、ふとしたこと、で今夜一瞬だけの恋愛が成立してしまうなら、それは実に卑猥な世相になってしまうであろう。
 恋愛は意志に依るべきである。恋愛チャンス説は、淫乱に近い。
 それではもうひとつの、何のチャンスもなかったのにずっと英太に恋をしていた経験とはどういうことかと恵理衣のことを思えば、僕はこんなふうに答えることができる。それは片恋というものであって、そうして、片恋というものこそ常に恋の最高の姿である、と。
 次に恵理衣に会ったら昨日の僕の発言を訂正しないといけない。恋愛も人生もチャンスに乗ずるのは、間違ったことだと。
 楽しそうに腕を組みながら歩いているカップル、こんな遅くに犬の散歩をしているおばさん、めんどくさそうに電話をしている会社員、そんな人たちの間をすり抜けるように、僕は恥ずかしさを感じていた。バッグからイヤホンを引っ張り出してオンにして耳に突っ込むと、「悲しくなるからさ今夜を忘れちゃわないと」と英太の歌声が流れてきて泣きそうになる。「グッバイ・グッバイ・グッバイ ただこれが愛じゃなかっただけ」と口づさみながら歩いた。

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