小説

『ただこれが愛じゃなかっただけ』柿沼雅美(『チャンス』)

 バラードを声を震わせながら歌い、スピーカーに足をかけて煽り、ドラムの正面になって客に背中を向けてヘドバンでリズムを取ったり、昨日よりも熱く客も暴力的なくらい盛り上がっていた。センキュートーキョー2デイズー!と叫び、アンコール曲をみんなで腕を挙げながら大合唱をすると、気づいたら少し前に出ている恵理衣がTシャツで顔をぬぐっているのが見えて、僕も目頭が熱くなった。恵理衣にもあったんだろうか。世の中がどうしようもなくイヤになってもどうすることもできない苛立ちや、歌詞のように夕立もないのに丘の上を走りだしたくなる帰り道や、みんなでいるのにいつも孤独をぬぐえないこととか、将来を考えると不安しかないからとにかく今を楽しく生きていこうとイヤホンをしながら自分に言い聞かせたりする時が、僕のようにあったにちがいない、と思えた。
 ライブが終わり、ぞろぞろと扉に向かう群衆に逆らって、夢中でスマホを誰もいないステージに向けている恵理衣に声をかけた。
 「あ、いたいた、声かけようと思ってたの。ちょっと待って、このマイクこの角度から撮りたいの」
 「恵理衣自撮りにすればいいのに」
 「いいの。マイクだけで、これのが映えるじゃん」
 呼び捨てにしてみたことも気づかないくらい、撮った写真を加工していた。
 「あのさ、楽屋行くんだけど、一緒に来る?」
 え、となにかエイリアンでも見たような不思議そうな顔を僕に向けた。
 「昨日、言ってただろ」
 ちょっとかっこつけてポケットからパスを取り出して、恵理衣の目の前でシャツに貼りつけた。
 恵理衣は、マジかあああああ! と大声をあげ、僕に飛びつくように抱きついた。僕は瞬時に、あ、きっかけ、と思った。
 「行く、行くよ、おねがいします!連れてってください、サトケン様」
 「大げさだよ」
 「大げさじゃないよーキャー」
 両手を上げる恵理衣を連れて、フロアを出て、スタッフさんに声をかけると楽屋を教えてくれた。関係者の人たちは聞かなくても分かるのかすたすたと僕たちの横を早足で行き来している。
 楽屋のドアは開けっ放しで、むっとした湿気た空気が漂っていた。部屋の中は、壁沿いに鏡が並んでいて、鏡に直角にテーブルが作られている作りだった。ソファがいくつか置かれていて、右奥のソファに英太が座っていた。
 「うあーケンちゃん、来てくれたー、ありがとー」
 英太は僕を見て立ち上がり、久しぶりーと言って肩を組んできた。Tシャツをめくり上げて首の汗をぬぐう。
 「あ、お友達だよね」
 英太が言うと、恵理衣は緊張しているのか動かないまま、はい、とだけ言った。恵理衣って言うんだ、と紹介すると、Ohエリー!と何が嬉しいのか英太が手を叩いたあとで恵理衣の手を取った。
 「エリーちゃんありがとうね、いつも来てくれてたの?」
 「はい、10年前から」
 「マジ!デビューの頃からじゃん」

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