小説

『ただこれが愛じゃなかっただけ』柿沼雅美(『チャンス』)

 だから、その恥ずかしいことを経験してない僕がおかしいんではない。だって、僕には、たまたまこれまでチャンスがなかっただけなんだから。単なるきっかけ、そう、きっかけがないだけなんだ。
 僕がこれまで目にしてきた非常に恥ずかしいことをいくつか思い出してみよう。
 大学に入ってすぐの頃、サークルのみんなと夏休みにテーマパークに行ったことがあった。夕方頃になって急に雨が降り出して、僕たちは、スーベニアショップに向かって走っていた。
 そこで雷。ゴロゴロピカピカという一般的なものじゃなく、バリバリと分厚いガラスにヒビが入るような音と、地面が揺れるような地響きに似たものだった。前を歩いていた2年生の先輩の女の子が、1年生の男子、イケメンと呼ばれていた彼の腕に、雷と同じタイミングでしがみついた。こわーい、と大きな声をあげて。
 そのわざとらしさったらなかった、怖いと言いながらしっかり顔を上げて男の子を見上げる。いやらしさがあった。怖いなら一人でしゃがんで突っ伏したらいいじゃないか、と思った。でもしがみつかれた男もまた、ヘタの手つきで女の子の肩をぐっと引き寄せて、こわくないさ大丈夫、なんて海外映画のセリフみたいに言う。これが、もののはずみ、きっかけ、なんていうもので、そのあと二人は付き合った。全てはそのチャンス、きっかけ、だろ?。
 もうひとつ。ついこの間だ。いつも通りの電車に乗っていたらいつになく電車が急停車した。スマホでゲームをしていた僕はつり革につかまる暇もなく、隣に立っていた20代半ばくらいの女性によろめいてしまった。夏だったから汗もかいていてその汗が肌にくっついたんだと思う。
 すると女性は、汚らわしいとでも言いた気にすごい目つきで僕を睨んだ。さすがにジロジロ見られるので僕は女性にはっきり言ってやった。「僕が一体何をしたと言うんだ。ちょっとうぬぼれてるんじゃないのか。誰があなたみたいな女に好きでもたれかかるもんか。欲求不満だからそんな変に気にしたりしてるんじゃないの」と。女性は途中から聞こえないふりをしてそっぽを向いたけれど、また急に僕を見て、このバカ!と声をあげて僕の腕をバシッと叩いた。
 ここでもし、女性が僕に優しく、こちらこそごめんなさい、だの、揺れると大変ですよね、などと言ってくれたら、恋愛のきっかけになったんだろう。それはチャンスだ。だけど誠に残念ながら僕にはチャンスが訪れなかった、もちろんその女性にも。
 ふぅ、と一息吐いて辞書を閉じた。パフっとした音と辞書からの風が唇に当たってくすぐったい。明日、恵理衣にはしっかり言ってやるんだ、恋愛とは色欲をうまく取り繕って愛と思い込ませるだけのもので、すべてはそこにチャンスがあるかないかだ、ってね。

 ライブ会場に入ったところで英太からメッセージが入った。今日なら取材が入ってないから終わったら楽屋に顔見せてよ、とあったので、友達もいるんだけどいい?と返すと、もちろん、と言ってくれた。すぐに、もしかして彼女?と言うので、まさかそんな、と言うと、なんだぁと変なスタンプをよこした。
 会場入り口の関係者受付というところに行くと名前を聞かれ、答えると四角いスタップシールをくれた。  
 恵理衣はとてつもなく喜ぶだろうと思った。英太のバンドのライブがなかったら、そもそも英太がバンドを組んだりしてなかったら、たまたま同じクラスの隣の席にならなければ、恵理衣みたいな自分とは遠いキャラクターの女の子を喜ばすことなんてできなかったんだろうと思うと、何か英太だけじゃなく恵理衣にも縁のようなきっかけのような不思議な気持ちが芽生えた。

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