小説

『ただこれが愛じゃなかっただけ』柿沼雅美(『チャンス』)

 アカウントが僕とも知らずに、恵理衣が、私もいましたー今日超よかったですよね、とコメントをくれた。
 恋愛ってなんだと思う? と言われたのを思い出して、僕は本棚にしまいこんでいた辞書を取り出して、恋愛を調べた。辞書には「性的衝動に基づく男女間の愛情。すなわり、愛する異性と一体になろうとする特殊な性的愛」とあった。
 んー?と考える。「愛する異性」ってどんなものなんだろうか。だいたい「愛する」っていう感情は「恋愛」以前に別に存在しているものになるのだろうか。じゃあ「異性間において恋愛でもなく愛する」ということはありえることになるのだろうか。
 好き、惚れる、想う、慕う、焦がれる、迷う、変になる、これは全部恋愛の感情だよな。じゃあ異性間での「愛する」っていうのはなんなんだ、あ!恵理衣が前に言っていたことだろうか。「恋愛とか抜きでサトケンのこと好きなんだよね、末っ子気質だからお兄ちゃんみたいな感じでもいいと思うし仲良くしようよ」とか。いやいやいやいや、あれはきっと僕が恵理衣に気があると思われて伏線を張ったんだろう。愛するもクソもねぇよ、なにがお兄ちゃんだよバカらしい、誰が恵理衣のお兄ちゃんになんてなるもんか、話がちがうよ。
 じゃああれか、キリスト教学なんていう教養の授業で聞いたキリスト教の隣人愛みたいなことだろうか。まぁそれならわかる。しかし男女で恋愛でなく異性を愛するなんて偽善みたいなもんじゃないか、ウィンウィンの関係を崩さないための。
 それにこの辞書にある「一体になろうとする特殊な性的愛」の「性的愛」っていうのはなんだ。性が主なのか、愛が主なのか、卵が親か、鶏が親か、いつまでも循環するあいまいすぎる考えじゃないか。性的愛なんて言葉は日本語らしくしてるけど、何か下品なものを上品めかして言い繕っているように思う。
 一体キリスト教でもない日本では「愛」っていう字を何にでもつけて、どうにか文化的な高尚なものみたいにでっち上げているように感じてしょうがない。 
 だいたい平安時代とかそのあたりなんかは「恋」って言ってもよさそうなのに、気づいたら「恋愛」なんて新語を発明して、恋愛至上主義なんてのを文壇で叫んで、ガールズメンズの共鳴を得たりしている。
 恋愛至上主義なんて女が言ったらかっこいいとでも思ってるんだろうか、男が言ったら優しいとでも思っているんだろうか。もしもっと日本語らしく色欲至上主義なんて言ったって意味は全く同じなんじゃないか。「恋愛」の「愛」も「性的愛」の「愛」も卑猥感を隠蔽するのに使ってるだけなんじゃないか。
 世の中にいる自分と同じような男たちを見ていれば、ネットを覗いてみたら分かる。たとえば月が綺麗ですねぇなんて言って手を繋いで夜の公園を散歩しているカップルは、何もあれは「愛」し合っているんじゃない。心の中は、いつキスしようか、いつ抱きしめようか、自宅に連れ帰ろうか、駅近くの帰り道にどこか二人でゆっくりできるところで休憩でもしようか、とか考えているんであって、一体になろうとする特殊な性的煩悶だけなんだ。
 もし僕がこの辞書の編纂者だったらこんなふうに定義するだろう。「恋愛。好色の念を文化的に新しく言い繕っているもの。手を出したい、なんならやりたいという衝動に基づく男女間の激情」つまり色欲のWarming-upだ!
 こんなふうに言うと、偉い人やクリーンに生きている人は、怒るかもしれないけれど、僕だって好きでこう定義するわけじゃない。甚だ不愉快な気持ちでしかたなしに書いているんだ。だって恋愛とは何かって聞かれたら、次から僕はこう答えるんだ、それは非常に恥ずかしいものだよ、と。

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