小説

『ただこれが愛じゃなかっただけ』柿沼雅美(『チャンス』)

「人生はチャンスだよね。結婚だってチャンスだ。恋愛もチャンス」
 僕は高揚した気分のまま言う。
「へー、じゃあ恋愛ってなんだと思う?」
 ジンジャーミルクティーなんて辛いのか甘いのか分からないものが入ったカップの淵を指でつんつんと触りながら牧野恵理衣が言う。え、と僕が口をつぐむ。
「あ、ごめん」
 恵理衣は顔を上げて黙っていた僕に言う。
「え、だからなにが?」
 僕が返すと、だって、と申し訳なさそうな顔をした。
「だって、ほら、未経験でしょ?」
 未経験、というのが分かっているのにじゃあなんで聞いたんだと思いながら、あぁべつに、と返事をした。
「いや、でもほら、学校ではゼミで同じくらいだし、私の知らないところでいろんな友達とか彼女とかいるのかなって思ったりしてるんだよ? それに、サトケンのライブ中の飛び方慣れてるし」
 苦し紛れにフォローしているのが分かるけど、僕も、そりゃまぁね、学校が全てじゃないし、色々あるよ僕にも、とかっこつけて言った。恵理衣は、だよね、やっぱりほんとは色々あるよねうん、と笑う。
「じゃあ改めて聞くけど、恋愛ってなんだと思う? どうしたらちゃんとできるんだと思う?」
 ちゃんと、っていうのはどういうことだろう、と思いながら、恵理衣はそのままでいいと思うけど、と言うと、ほんと? と嬉しそうな顔をした。答えを求めているわけではないのか、と思う。
「明日の公演も来るでしょ? バンドだって恋愛の曲が多いでしょ? もっとボーカルの英太くんの気持ちが分かったらおもしろいだろうし、サトケンって中学のときの同級生なんでしょ?今度楽屋挨拶行くときは私も連れていってよ、友達ってことで、ね?」
 あぁやっぱりそういうことか、おかしいと思ったんだよ、こんな中肉中背どちらかといえば地味でほぼ童貞の、ほぼだよ、限りなく脱寄りのほぼ童貞の僕に恋愛の話だとか、大学ではゼミで一緒に発表したくらいでしかないのに急にライブの話をして一緒に楽しもうよなんて言ってきたりさ、と心の中で、恵理衣とライブを観てカフェに寄った理由を確かめた。
「じゃあ明日楽しみにしてるから!ね!ね!」
 笑いながら目がマジな恵理衣に、考えとく、と言うと、明らかに不満そうに、でもそれを上手く隠して、よろしくー、と言ってスマホをいじりだした。
 店を出て手をふると、恵理衣は振り向きもせずに改札にまっすぐ向かって行った。僕は十五分ほど歩いて一人暮らしの家に帰り、すぐにパソコンを付けた。スマホでバンド用アカウントをタップしてライブの感想をつぶやく。帰りに彼女とライブの余韻を楽しんで帰ってきたとちょっとだけ嘘をついた。すぐにファン仲間からイイネがつき、エンディングハイのギターリフが最高だったとこか、ドラム安定だったとか、盛り上がりの余韻を共有していく。

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