小説

『まつり』大森孝彦(『ひな祭り』)

 表情はないものの、その声音は痛切で、悩みに悩んでいるという事は、簡単にわかった。
「何のことだか、わからないんです」と僕は後ずさった。
「いいから、はやく返しなさい! 目を覚まして!! もうすぐ日をまたいでしまうでしょう!」
 女性は僕に肩から突き上げるように体当たりをした。
 あまりの衝撃に、浮遊感の後速やかに急転直下。僕は奈落に突き落とされた。
これまであった段差は夢のように掻き消えていた。積み上げた罪の高さから、下降しているかのようである。
 地面にぶつかるその刹那。
 息が止まった。
 そして、僕は目を覚ました。
 寝汗がすごく、息もあがっている。
 心臓はマラソンの後のよう。まるで太鼓みたいに鳴っている。
 時計を見ると、深夜の二十三時五十五分。
 僕はベッドから抜け出し、勉強机の鍵を開け、そこに隠していたものを取り出した。
 妹と両親を起こさないように、ぬき足さし足。
 目的地はリビングである。
「ごめんね」と僕は心から謝った。
 喧嘩をした妹に対しては、素直に謝れはしないが、あんなに悲しそうにしていた彼女になら、素直に頭を下げられた。
 お内裏様が隣にもどったお雛様は、無表情ではあったが、どこか幸せそうに見えた。
 もうすぐ楽しいひな祭りだ。

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