小説

『まつり』大森孝彦(『ひな祭り』)

「うわあ」と、僕は叫んだ。
 迫りくる死から、とにかく逃れんとして、着地の心配など全くせず、がむしゃらに跳んだ。
 跳び引く前にいた、まさにその場所に、矢が突き刺さる。矢は、しばらく揺れてから動かなくなった。まるで最初からそこにあったのだと言わんばかりのすまし顔のようで、何だか小憎らしい。
 ごくり、と唾を飲む。緊張のあまり、喉はからからで、唾は何だかねばついて不快だ。
 風切りの音が耳に届き、今度は僕の顔の一寸横を矢が通っていった。一瞬の後に、矢が壁を穿つ音も届いてくる。
「かたきだ!」と、矢をさらに番え、白い髭をたくわえたお爺さんが叫んだ。
 その怨嗟の声に、どれ程の憎しみが込められているのであろうか。まるで血を吐くかのような苛烈さがあった。けれど、顔だけは一向に無表情のままなのである。それが不気味さを、より際立たせていた。
 僕は恐怖のあまり、恥も外聞もなく、逃げ出した。鼻水や涙、よだれを垂れ流しながら。
 失禁していない事だけが、唯一守られていた尊厳であったかもしれない。
 狩られる者と狩る者がこの場にいて、僕は前者。彼、いや彼らは後者だ。
 狩る者はひとりではなかった。
 なぜならば、矢のお爺さんを鼓舞するかのように、あるいは狩られる者を脅かすかのように、管楽器や打楽器が、滅多矢鱈に吹かれ、打ち鳴らされているからである。音はどこから聴こえてくるのかは定かではない。遠くのようで、近くのようで。ただ、複数の入り混じる音が、より孤立感を抱かせ、気持ちを萎えさせていくのは確かであった。
 ここは何処なのか。一向に見覚えはない。気がつくと、僕はこの場所に立っており、弓矢で射られるなどという、まさか生涯で経験すまいと疑わなかった事態に遭遇したのであった。
 これは、僕という、いたいけな少年を狩るための、まつりのようなものなのかもしれない。中世の貴族が狐を狩っていたかのように。
 追い詰める事を、楽しんでいるのだろうか。それにしては、あの弓矢の男は、無表情でありながらも、あまりに激情を迸らせていたような気もするのだけれど。
 メジロドーベルの如き形相で駆け抜けていると、物影から身を躍らせた和装の男が、その手に握りしめた刀で横一文字に薙いできた。
 かわせたのは、運が良かったとしか言えない。身体を捩るようにして、着地の事など全く考えないで、兎に角反射的に跳びあがった。
 地面をごろごろと転がる僕に、容赦のない追撃がかけられる。
「まってまって!」と僕は声を大にした。
「待てと言われて、待つものがあるか!」と和装の男は無表情のままでありながら、口角泡を飛ばした。

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