小説

『まつり』大森孝彦(『ひな祭り』)

 しかし、その先には、また壁があった。左右はこれまでと同じで、ずっと先まで続いている。
 徒労は心を挫けさせる。
 両膝を突こうとして、襲いかかって来る人影に、反射的に身をかわし、また壁を登った。追手は登っては来られないらしく、手が届かない所から下を見下ろすと、髭を蓄えたおじいさんが、やはり無表情で、僕に対して悪口雑言を吐きだしていた。
 登り切り、待ち構える追手をかわし、また登る。
 無限地獄かとも思われたが、そう思い込むと心が折れてしまうので思い直し、これは階段なのだと考える事にした。大きな階段で、先にはきっと救いがある。
 もう何段上ったかわからないが、ようやく頂上に達した。
 頂上には金屏風があり、その向こう側に壁はもうない。音楽も、遠くからしか届かない。
 そこには、一人の女の子がいた。十二単を身にまとい、こちらに背を向けていた。
 よよよ、と泣き声。肩を震わせ、袖で顔を覆い、泣きぬれているらしい。そのヴェールに隠されたかんばせは、きっと美しいに相違ない。ふわりと甘い香りもしており、まず間違いあるまいと確信した。
 艶々と美しい緑の黒髪を眺めながら、僕は腰に響くような重低音を作り上げるように腐心した。
 そうか、これまでの苦労は、美女と出会うための試練であったのだ。
「お嬢さん、どうされましたか」
「わたくし、とても悲しんでおりますの」
 鈴の音のような、美しい声であった。
「私でよければ、相談にのりますよ」
「わたくしのお願い、叶えていただけるでしょうか」
「もちろんです。さあ、こちらを向いて、お顔をあげてください」
 袖で顔を覆ったまま、こちらを振り向いた。こういう奥ゆかしい仕草は、とても好ましい。女性は、淑やかであるべきなのだ。僕には妹がいるが、彼女はお転婆で、我がままで、やかましく、よく喧嘩をしてしまう。だから、正反対であるこういう女性には、心を奪われてしまうのも、むべなるかなである。
「では、申し上げます」
 女性の顔を覆っていたヴェールが取り払われる。
 そこには、すっと通った眉の美しい、けれど表情のない顔があった。
 さっと血の気が引いた。これまでの流れから、どうして女性だけが普通の人間であると思い込んでいたのか。己の助平心に涙を流しそうになる。
「私の愛しい人を返して!」

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