小説

『とある少女の物語』御厨明(『不思議の国のアリス』)

そう言われて瞬きをすると、それまでぼんやりとしていた世界に、はっきりと色がついていました。

綺麗な森は窓の外だけの世界。寝かされているふかふか柔らかい物は茸ではなくて真っ白なベッド。そうして、時折外で煙草を吹かしている芋虫のような主治医の苦い顔と、怒ると怖い母の泣き声。
「お前は馬鹿だ。馬鹿な子だよ。お前は、アリスなんかじゃない」
チェシャ猫の声が、耳元で囁きます。
「何言ってるの?私はアリスよ。ルイス・キャロルの童話の中の、アリス…」
「いいや、違う。お前は解っているはずだ。よぉく、思い出してごらん」
『急がなくっちゃ!急がなくっちゃ!』
脳裏に過るのは、今日聞いたばかりの、幼い声。
『早くしないと、『お母さん』に叱られちゃう!』
「え…?」
「白兎だと思ったのは、隣の病室にお見舞いに来ていた男の子。お母さんに呼ばれてた」
「あ……ぁ……」
「お前が落ちたのは穴じゃない。お前は穴に落ちてなんかいない。あそこはいつも中庭を見ていた屋上。お前は、屋上から飛び降りたんだ」
「…違う…違う違う違う」
アリスは何度も首を振ります。けれどもそれを裏切るように、今日一日の出来事が頭を過ります。アリスが都合よく塗り潰していた言葉が、明確に蘇ります。
『まったく、馬鹿な事をして!どうして屋上から飛び降りたりなんか!』
『目を離していた、我々の責任です』
『本当に申し訳ありません。お母さん』
『何とか一命は取り留めましたが足が…。もう手の施しようのない状態で…。ですが、根気よリハビリをすれば、或いは』
『どうして、この子が、こんな事に…!』
見える記憶が、現実に塗り替えられていきます。
「侯爵夫人は、看護婦長。トランプ達は看護士さん。芋虫は医者、女王様はお母さん」
「やめて、やめてやめてやめてよ!だったらアンタ達は一体何よ!どこにいるのよ!姿を見せなさいよ!声だけで脅かすなんて卑怯よ!……ねぇったら……いるんでしょぅッ!?」
嘆くような言葉をぶつけても、見える景色はもう変わりません。
それなのに声が。声だけが耳元で囁きます。
「…見渡したって探したって無駄さ。僕らはお前の、色んな気持ちなんだから」
「馬鹿だね御嬢さん。だからおいら達は一度も呼ばなかったんだ。お前を《アリス》と」
身体中の、血の気が引く音がします。

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