小説

『とある少女の物語』御厨明(『不思議の国のアリス』)

そこは、前に落ちた部屋ではなく、薄暗い、森の中でした。
「落ちた穴が、違う穴だったのかしら。…まぁいいわ、とにかく―――」
「まぁ、何て事!」
立ち上がろうとしたアリスは、甲高い声に驚いて言葉を詰めました。恐る恐る振り返ると、そこにはお母さんと同じくらい歳の女の人が立っていました。
「あら。貴女は…侯爵夫人!」
それは、怖くて大きな顔をした、侯爵夫人でした。
そう言えばさっきチェシャ猫と会ったのですから、その近くで飼い主である彼女に会っても不思議ではありません。もしかしたらここは、侯爵夫人の屋敷の側の森だったのだろうと、アリスは思いました。
「お久しぶり」
そこでアリスは、立ち上がって挨拶をしようと思ったのですが。
「…あれ?」
落ちた時腰とお尻を強く打ったのか、上手く立ち上がれません。
「こんなところで何をしているの!」
相変わらず忙しない夫人の声に、アリスは気まずげに肩を竦めました。
「ごめんなさい、夫人。実は今落ちて来たばかりなんだけど、腰を打っちゃったみたい。ちょっと待ってね?御挨拶は、立ち上がってからで―――」
「何を馬鹿なことを言っているの!」
「馬鹿だなんて。…失礼だわ。私だって、本当は直ぐに御挨拶したいのよ?ただ、ちょっとお尻が痛くて立ち上がれないだけで―――」
「動いちゃ駄目!いいから、じっとしていなさい!」
侯爵夫人は、ひどく慌てた様子で、怖い顔をもっと怖くして叫びました。
「いいわね?絶対にそこから動くんじゃないわよ!まったく馬鹿な事をして!」
「あ、ちょっと!」
途端に、夫人は森の奥へと走り去ってしまいます。アリスは呼び止めましたが、間もなく姿が見えなくなってしまいました。
「ちょっと待って!…行っちゃった…。やっぱり変な人。まぁいっか」
アリスは漸く立ち上がり、もう一度辺りを見渡します。その先の道は3つに分かれていました。アリスは、どの道を行こうか、少し考えて。
「折角だから真ん中の道がいいわ。まっすぐって、素敵だもの」
そう真ん中の道を歩きだしました。暫くして突然後ろから誰かの声がしました。
「御嬢さん。どこへいくんだい?」
それは、穴の上で声をかけてきたチェシャ猫の声でした。
「あら、チェシャ猫。また来たの。私は今、真ん中の道を行くことにしたから、歩いていたところよ。前みたいに、貴方に道を尋ねたりしないの」
自信たっぷりにそう返すと、途端に猫が奇妙な笑い声をあげました。
「馬鹿な娘だ。よく見てごらん。それは本当に、まっすぐか?」
「え?…あら?」

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