小説

『Erlkönig』希音伶美(『魔王』)

 故郷の村近くに戻るのは何年ぶりだろうか。子どもの頃禁じられたあの深い森も、馬で駆れば一晩で抜けられるだろう。夜の中では闇の塊にしか見えない木々の中に、小さな明かりを頼りに、手綱を緩めることもなく駆け入る。
 暗闇にも、悪魔の指先のような枯れ枝にも、恐怖は誘われなかった。記憶はおぼろげだったが、ヨハンはこの森に懐かしさを感じていた。この森は、この闇は、優しいところだった気がする。その印象が誰か人の形に結びつきそうになって、しかし像を作るところまではいかなかった。
 腕の中で息子が身を捩ったので、ヨハンは抱く腕の力を強めた。
「アウグスト、大丈夫か?」
「父さん、今……」
 先ほどまではうわ言しか言っていなかったアウグストの口調は、今はしっかりと落ち着いていた。
「声が聞こえた。僕の名を呼んだ」
「そうかい? 父さんには何も聞こえなかったよ」
 往く手を遮るような枯れ枝を振り払う。一瞬、それが枯れ枝ではなく、瑞々しい葉の生い茂った若い枝のように見えた、いや――人の手のように見えた。
「父さん」
 アウグストが強く肩をつかんだ。子どもの力とは思えないほどの力だったので、ヨハンは驚いた。
「どうした」
「あそこにいる」
 少年は来し方を指さし、見つめているようだったが、ヨハンは振り返るわけにはいかなかった。後ろに身を乗り出そうとする息子を強く抱き直しながら、手綱を締める。
「『魔王』だ。湖のほとりに」
「アウグスト、それはただの木だ」
「きれいな長いケープだ。輝くような髪だ」
「霧が揺れているだけだ、アウグスト」
――そうだ、ヨハン
 不意に、耳元に声が届いた。
――ただの木だ、ただの霧だ、ヨハン。君のともだちだ。
「僕と話して、エール。父さんと話さないで」
――ああ、すまない、アウグスト
 そう言い残して、また声は聞こえなくなった。
「……エール?」
 ヨハンは悪寒を覚えた。不意に、朧な記憶が鮮明になり一本の木を――ひとりの青年を形作った。
「エール……待ってくれ、ああ、まさか」

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