小説

『Erlkönig』希音伶美(『魔王』)

 腕に抱いた少年の体は信じられないほど熱くなっていた。鼓動が激しく、息は喉に引っかかったように不吉な音を立てている。それなのにアウグストは凄まじいほどの力で、ヨハンを振りほどいて後ろへ行こうとする。
「アウグスト、おとなしくしてくれ」
「父さん、魔王の娘たちが湖畔で踊っている。魔王の母親が黄金の服を用意している。あんなに花が咲いて、あそこは春だ、父さん、寒いよ……」
「アウグスト、花が咲いているはずがない。今、花が咲いているはずが……」
 しかしヨハンにも見えていた。青々と茂るハンノキ。そのふもとに広がる常春。忘れていた遠い約束。ヨハンは祈った。
「エール……エール、お願いだ。僕が戻るから。アウグストは連れて行かないでくれ」
 不意に、アウグストの体がぐっと後ろに引っ張られた。誰かが強い力で引いたのかと思った。引き離されまいと強く抱き直すと、アウグストが強く抵抗した。
「エール! 何? 聞こえないよ、もっと近くに来て」
「アウグスト、やめなさい、彼と話すのは」
「エール、連れていって、僕は」
「アウグスト、やめなさい、アウグスト、そこには何もいない」
「僕は約束を破ったりしない!」
 絶叫のようにそう叫ぶと、アウグストは気絶したようにぐったりとしてしまった。熱く深い息をしている。
――ヨハン、人は最後には何も持たない
 耳元でエールの哄笑を聞いた気がした。哀しい声だった。
 森を抜けた。もう町まではすぐだ。ヨハンは馬を駆った。もう、無意味だとわかってはいたが。

「残念だが、もう死んでいる」
 医師は欠伸をしながら言った。当然、ヨハンにもわかってはいた。アウグストの体は冷え切っていた。
 アウグストは見たことがないほど大人びた顔をしていた。
「とても病気のようには見えない。死んでいるようにも」
 医師は頭を捻った。
「……息子は常春の国に行ったのかもしれない」
「そう思うのがよろしいでしょうな」
 ヨハンが俯いたまま零した言葉を、医師は肯定した。
「子どもは主の国にふさわしい。アーメン」
「主の国……」
――主の十字架の歳にしよう、ヨハン
 約束を破った僕はそこに行けるだろうか。馬を駆って戻れば、迎えに行けば、会えるだろうか。アウグスト。エール。
「私も今から、そこに行こうと思います」
 医師は冗談だと思ったらしく、笑いながらヨハンの肩を叩いた。翌日、馬を宿の軒先に残したまま、ヨハンは森に向かって走った。

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