小説

『Erlkönig』希音伶美(『魔王』)

――ああ、ヨハン
 エールはあやすように撫でてくれる。包み込むような、温かい大きな手。
――君がそう言うなら、私はどれほど君を連れ去りたいことか。しかし私はこれ以上『魔王』なんて呼ばれたくないんだ。ヨハン、君は私を憐れんでくれるか
「エール、そんなこと……!」
 ヨハンは感動していた。大人の、美しく堂々とした人が自分を頼っている。陶酔するほど満たされる思いだった。
「僕は君のために何ができるだろう?」
 いつの間にか、二人はあの湖畔に居た。エールは水辺に跪き、白磁の指先で水面を撫でる。謎めいた波紋が湖面を渡った。
――君はこれから大人になる。冒険と闘争を経て、愛と挫折を知り、知恵を得る。そうして振り返ってみれば、今日のこの瞬間など、大したものではないことがわかるだろう
 ヨハンには、エールの言わんとしていることがわかった。それは、ヨハンの悩みに似ているような気がした。
――それでも君は戻ってくるだろうか。君の友達はただの一本の木だ。それでも
「僕は大人になっていろいろなことを知るかもしれない……でもそんなものに僕は捕まってしまうだろうか? だって、人間は、最後には――」
――最後には何も持たない
 ヨハンの言葉をエールが引き継いだ。エールはしばらく虚空を見つめて黙っていた。ヨハンは使命感にも似た期待を持ってエールの言葉を待った。千年の存在が、僕の言葉で心を動かそうとしている。
――君は賢明だヨハン。私は……君を信じてもいいだろうか
「もちろんだ!」
――ではヨハン、主の十字架の歳にしよう。二十七年後だ
「二十七年後……」
――その時君がここに居たら、私は君を連れて行く。そうしたら、一緒にどこへでも行こう
「ああ、エール……!」
 必ず! ヨハンは頭の中で叫んだ。
 同時に、ヨハンは目を覚ました。母の咳と、シャルロッテの泣き声が聞こえる。秋の弱々しい陽光が窓辺で揺れていた。

 それからヨハンは両親の目を盗んで幾度も森へ行った。ひとり想いに耽る時、どうしようもなく寂しい時、そして多くは、泣きたい時に。エールはいつも優しく思慮深い友人でいてくれた。理解と受容、深遠な助言。時には冗談を言って二人で笑ったり、二人何も言わず日が暮れるまで風の音に耳を澄ましたりした。約束の日まで、ずっとこうしているのだ。ヨハンはそう信じて疑わなかった。

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