小説

『Erlkönig』希音伶美(『魔王』)

 段々に木漏れ日の影が長くなっている。小さく覗く空の色が紫から赤に移り変わっていくのと一緒に、鬱蒼とした木々の葉色が深緑から黒に変わり始める。もう日暮れが近い。今日は諦めて、一旦家に戻るべきだろう。その為には、家に戻る道を既に失っていることに、もっと焦りを感じなければならないだろう。
 しかし、そんな気持ちにはならなかった。ヨハンの心を占めていたのはたった一つの想いだった。
 エール、どこにいるの。
 エール、会いたい。あの優しい笑顔が見たい。不思議な深い声が聴きたい。ミルクを糸にしたような滑らかな髪に指を通し、柔らかな陽光を編んだような白金の衣に頬を寄せたい。羽毛のような真っ白な睫毛の隙間から、深い湖のような蒼い瞳が見つめていて、クリームのような唇から蜂蜜のように甘い声が囁く。世界でただ一人、私だけは君の味方だと。
 段々に影が濃くなっていく森の中をヨハンは無我夢中で走り続けた。得体の知れない獣たちの声がそこここから響き始める。
「エール!」
 ヨハンは叫んだ。その声は危険な獣たちを引きつけるだろう。お構いなしだった。むしろヨハン自身が一人の獣のように吠えた。
「エール!」
 不意に、足にがくりと衝撃が走った。何かに躓いた。そう考える間もなく、視界がぐるりと回って体が宙に浮いた。躓いた先は崖だった。地面が遠く見えて、ヨハンは衝撃を覚悟した。次の瞬間。
 フワッ――と何か柔らかいものに全身が包まれた。雲の中に飛び込んだようだった。
――危ないな、ヨハン
 そしてすぐ耳元で、焦がれたあの声が聞こえた。弾かれたように顔を上げると、目の前に輝くような美しい青年の顔があった。
「エール……!」
――また泣いている。君は私に会いに来るとき、いつも泣いているね
 エールは悲しげに眉を潜めると、強くヨハンの体を抱きしめてくれる。母さんより嫋やかな姿をしていながら、抱きしめる力は父さんより強かった。
「エール、僕は――」
 ヨハンは堰を切ったようにすべてを話した。熱を出した日から、父と母が森に行くのを禁じたこと、老婆の予言、子どもをさらう「エールケーニヒ」の話。
 エールは叡智を感じさせる遠い視線で、ただ頷きながらヨハンが話し終えるまで聞いていた。
「君はどうする? もし、私が『エールケーニヒ』――『魔王』なら」
「僕は――」
 その答えは決まっていた。
「僕は、連れて行ってほしいんだ、エール」

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