小説

『Erlkönig』希音伶美(『魔王』)

「ヨハン!」
 朦朧とした視界の中に、草をかき分けて走り寄る母親の姿を見つけて、ヨハンは思わず涙が溢れた。エプロンにも肩掛けにも枯れ葉がまとわりついている。
「かあさ……」
 ヨハンは咳き込んだ。ひどく深い咳が喉に絡んだ。
「ああ、ヨハン」
 母はヨハンを抱きしめ、額に手をあてた。
「ひどい熱。よかった、もう大丈夫よ。もう大丈夫」
 視界も思考も熱にぼんやりして、母親が喋っている声がまだ遠いように聞こえた。再び、眠りに落ちようとしていた。熱に浮かされて、母の温かい腕の中で眠りに落ちる感覚は、不思議な青年の腕の中で落ちた眠りによく似ていた。

 母親と父親が囁き合う声が、まだ起ききっていない頭の中で反響する。緩慢な音楽のように。
「あの森――子供が――最近だって――」
「――でもあの子は――」
「危ないところで――」
 ヨハンにはまだ、熱が見せる悪夢と現実の区別がつかなかった。これも本当は夢の中の出来事だったのかもしれない。
「――エールケーニヒ――」
 だが、誰かが会話の中で言った言葉が耳に強く残った。その声は、父の声か母の声かわからなかった。エールケーニヒ――ハンノキの王。

「片足まで取られている」
 熱が引くと、ヨハンは村の占い師ウルリーケのところに連れて行かれた。ウルリーケはヨハンを見るなりそう言った。
「かなり危険な状態だ。もう、手遅れと言ってもいいかもしれない」
 ヨハンには何を言っているのかわからなかったが、老婆の言葉に両親はかなり動揺を見せた。
「もう二度と、森には行かせませんから……」
 母がそう言うと、老婆は笑って首を振った。
「この子は森に行くよ。どうあっても行くだろう。しかし戻ってくるかもしれない。それはこの子次第だ」
 老婆は両手でヨハンの顔を包み込み、濁った大きな目で少年の目をまじまじと覗き込んだ。
「それで戻ってくるなら、おまえはもう大丈夫だ。しかし、誰も連れていかないで『ハンノキの王』が満足するかどうか、わからない」

 家に帰ると、いつも通り父は馬を世話して、母はグラーシュを作った。夕飯を採る間、両親はいつもより口数が少なかった。ヨハンが森へ行ったこと、森で倒れていたことは、ヨハンが考えているよりも深刻に受け止められているようだ。エールと名乗る不思議な青年に会ったことは、ヨハンは話さずにいた。そこに問題の中核があるらしいことに、ヨハンは気づいていた。
食事の後、シャルロッテを寝かしつけるのを父に任せ、母がヨハンを呼んだ。母は揺り椅子に掛けて膝の上にヨハンを抱いた。シャルロッテが生まれてからは、久しく無かったことだった。

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