小説

『狼と老婆』沢まゆ子(『赤ずきんちゃん』)

 忘れたかったのよ。
 旦那のことを? 
 自分のことを。
 なかったことにしたかったのよ。全部。

 離婚から五年ほどが経ったある日、女は山奥のこの小さな一軒家を買った。山奥ではあったが、視界は開けており、庭先からは湖が少し見えた。
 「中古物件で、安かったのよ」
 フリーの編集者として稼いでいたので、なまじお金には余裕があった。
 一通の手紙が届いたのは静かな暮らしを始めて二回目の夏を迎えようという、肌に当たる風が気持ちのいい初夏だった。
 「このメールの時代に手紙よ。古風でしょ。呆れるほど」
 突然の便りに対する詫び、夫を介して人づてに住所を入手した詫び、この件は夫も承知していること、しかし夫の反対を押し切っての自分の提案であること。手紙の冒頭にはそんな内容が丁寧な字で綴られていた。――娘が学校で荒れています。そちらは環境もいいので、少しの間でいいから夏休みに遊びに行かせていただけないでしょうか。無論、娘ひとりで行かせます――
「男の子をグーで殴ったとか、それで問題児扱いされているとか書いてあったかな。そんなことくらい、わたしも子供の頃やった気がするけれど、時代ね。今の時代は大変よ」
 女は七輪に刺していたヤマメを引き抜き、がぶりと食らいつく。
 「やだーめちゃくちゃ美味しい。あなたよく釣れたわね、こんな貴重なもの。やっぱり下手に料理しなくてよかった。塩焼きが一番ね」
 もちろん言うまでもなく、離婚後に夫と、ましてや再婚相手と、女が連絡を取ったことは一度たりともなかった。
「すべての人と連絡を絶つ、なんてしたら変に目立つじゃない。だからある一定の人には引っ越し先を伝えたわよ。仕事関係当たれば、住所くらい簡単にわかったんでしょ」
 貴重なヤマメと言いつつ、惜しげもなくぺろっとたいらげた女は口を拭いながら続けた。
「環境がいいって、そりゃ自然環境はいいわよ? でもその他の環境は? いくら夫婦ともに両親はすでに他界していて身寄りがないからって、どこの世界に別れた元妻のところに娘を行かせる親がいるのよ。その子、余計に荒れるって思うでしょ、普通」
――夫はおろおろするだけで頼りになりません。あなたならわかっていただけるんじゃないでしょうか――
 手紙にはそうも書かれていた。
「はいそうですか、ええいいですよ。なんて言える? こんなおかしな話に」
 女は思った。何か裏があると。
「だから、いいわ、じゃあ一回、あなたとわたしの二人で会いましょうって返事したの」
 相手からは、自分が会いに行くことはできない。でも来てくれる分にはかまわない、との返事が来た。
「病院だったのよ。白血病らしくてね、入院が続いていたみたい」

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