小説

『狼と老婆』沢まゆ子(『赤ずきんちゃん』)

 「住んで二年になるかな」
 「え、住んでんの? この山奥に? なんで? 不便じゃない?」
 「あなたさっき快適、自由って言ったじゃない」
 「だってそれは」
 部屋にはよくわからない材料や見慣れない道具が散らばっている。
 「自由って何かしらね。案外、人がいるほうが心は自由な気がするわ。一人は自分しか居ないから、否応なしに自分に向き合うし、自分に向き合わざるを得ない時間が長いから」
 使い道のなさそうなぼろ布、パレットの上で乾いた絵具、乱雑に積み上げられた本。独り言のようにつぶやきながら女の視線がゆったり移動する。
「まあいいわ。そんなことより」
 ぐるりと部屋を眺め回した女は確信したように言った。

 「で、突然来て、狼貸せ、老婆にしろ、だもんな。それじゃ誰だって言うだろ。なんで?って。しまいには、言葉にできないこともあるじゃないって泣き出すし」 
 そのとき狼は思った。やばい。そうとういかれた女に出くわしてしまった、と。
「突然って言うけれど、先に突然来たのはあなたじゃない」
 女はぶどう酒を飲み干し、言った。
 観光地ではない。別荘地でもない。しかしきれいな川が流れ、ぽつりぽつりと家の建つ、山奥での話だ。

 世界で活躍する建築家の叔父に憧れ、その道の大学に進学するも、迫りくる卒業を目前に、将来に活路を見いだせず悶々とする日々。ある日観たB級ホラーの特殊メイクに感動し、その世界にのめり込む。独学で勉強を始めていたところ、「使っていいぞ」という叔父の一声により、その夏、叔父の別荘、否、山小屋で自由気ままな期間限定の一人暮らしを手に入れる。
ときに狼、若干二十歳に毛の生えた鼻たれ小僧である。ほんの出来心だった。
 「ガオー」
 初めて作った作品が狼だった。
 広い別荘で一人気ままに暮らしているとなれば、同輩がかぎつけないわけがない。大学の輩が数人遊びに来た夜、その狼で人を驚かそうということになった。酒に酔った勢いで思いつかれた悪ふざけである。
 一軒、二軒はキャーと言う黄色い悲鳴が飛んだ。
 「馬鹿にしてんじゃないわよ」という怒声とともに、ぶどう酒の空き瓶が二本三本飛んできたのは、女の家からだった。
 「俺、あのとき、じつはへこんだんだよな」
 男はパンをちぎりながら思い出す。

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