小説

『名前って、ふたつ以上の鐘の音』入江巽(『ラムネ氏のこと』坂口安吾『赤と黒』スタンダール)

 だが、トミコだけは、すこし世の中とズレた感性も持つ女だったので、こうした言葉をアルベールが熱く語るとき、最初こそ笑っていたが、やがてそうかもと思い始め、一理ある、と感じるようになり、ついには、ほんまにそうやわ、コンドーム考えたコンドーム氏、えらい人や、この苗字でなんも恥ずかしいことあれへん、あたしらは使うの忘れたけど、と思うようになってしまった。文学的教養豊かなトミコは、坂口安吾の「ラムネ氏のこと」というとても短いエッセイを、アルベールの話を聞きながら思い出していた。自分の研究対象であるスタンダールの名前が出てきたので、むかし読んだものだった。最初の部分が特におもしろい。歴史上いた「ラムネー氏」ははたして飲み物ラムネの開発者なんだろうか、そうかもしれないしそうじゃないかもしれない、そういう話から安吾は、とても大事なことを語りはじめる。ラムネ氏が、ほんとうにラムネを考えたひとなのかはわからない。けれど、ラムネ氏がラムネを考えたんだとすると、それはなんてキュートなことなのか。なんでもないようなもの、ありふれた身の回りのひとつひとつ、必ずそれをつくりだそうとして考えたひとがいる。つまり、コンドームだってキュートで、コンドームだって世界の一大事だ、トミコはそう思い、アルベールが望む複合姓のもとに結婚することにした。こうして、世にも珍しい苗字を持つ、田中コンドーム・ファミリーが誕生した。
 やがてジュリアンの兄、リュカがうまれた。結婚したらよけいにコンドームを使うのをアルベールとトミコは忘れるようになったので、三年後にジュリアンが生まれた。長男リュカはアゴタ・クリストフの小説から、次男ジュリアンはスタンダールの小説から、それぞれ名づけた。自分のすきな小説に出てくる人名から、響きのすききらいで感覚的にトミコは選んだ。この双方の小説で、リュカとジュリアンが幸福とはあまり言えない一生を送ったことは、トミコはあまり気にしていない。
 夫の仕事も順調で、「職人は、コンドームで」と、工房に入る注文でも指名されるくらいの腕になっていたアルベールが、交通事故で死んだのは、ほんとうに突然だった。夫を轢いたシトロエンの車や、どうかするとロゴだけでも、トミコは見ると、いまでも胸が苦しくなる。なぜこんな突然になにかが終わるのか。偶然が憎いと思った。相手が完全に悪い事故で、トミコは5000ユーロの保険金を受け取った。アルベールはあほだけど、本当にたのしい、いい男だったな、こちらが5000ユーロ払ってもいいからアルベールを返してほしい。トミコはふかく傷ついていたが、こども二人を育てなくてはならなかった。歯を食いしばった。
二〇〇一年、九十三年から足かけ八年住み、修士の学位を取り、結婚し、ふたりの子供を産んだマルセイユを離れ、リュカとジュリアンの手をひいて、トミコは大阪に帰ってきた。しばらく実家にいて、やがて、天神橋筋六丁目に、一軒家を借りた。

 奥手なジュリアンが、自分のひとに隠している苗字の一部、「コンドーム」の用途を知ったのは、小学四年生のときだった。兄であるリュカはそのとき中学一年生、話があるんやと、ある夜、隣り合うジュリアンの部屋にやってきた。田中コンドームいう俺らのほんとの苗字、なんで隠さなあかんかわかるか、だしぬけにそう言われ、ぼけっとした顔のままでいると、兄はすぐにチョコレートの箱をすこし大きくしたようなそれを、ジュリアンに放った。それは、男と女がややこしいことになると必要になるもんで、ジェット風船の小さいようなやつや、この、滑稽なような、恥ずかしいようなもんの名前がコンドーム言うねん。そいでな、田中コンドームってひとに言ったら、相手の頭んなかにこの小さいジェット風船がピューと吹き抜けて、おかしいような、あほみたいな、そんなことになってまうねん。そういうことやねん。お前はぼんやりしとるから教えといたる。ええか、ジェット風船がピューやぞ。リュカはそれだけのことを言い終わると、コンドームの箱を回収し、ジュリアンの部屋から出ていった。あっという間に目の前から消えたコンドームの箱、開封ずみだった。

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