小説

『名前って、ふたつ以上の鐘の音』入江巽(『ラムネ氏のこと』坂口安吾『赤と黒』スタンダール)

 妊娠を告げると、予想に反して大喜びのアルベール、まず、俺はカトリックやから結婚式もそうしたいんやけどトミコはいやかなあ! 、ということをフランス語で言った。ニースにおる両親に紹介したいけどそっかトミコ、いま修士論文で忙しいからなあ、向こうにマルセイユに来てもらうことにしよか! 、あと子供の名前なんにしよか! 、あっ、でもまだ男か女かわからへんな! 、立て続けに言うニコニコ顔、結婚することをまったく疑わない態度で話してくるので、トミコは、うれしいより先にこのひとあほやなと感じ、あんたあほやな、結婚なんてそんな簡単なもんちゃうよ、ということをフランス語で言おうとしたとき、結婚についてはたして自分がなにを知ってるっていうんやろ、なんでこんな他人事みたいな言葉を言おうとしてるんやあたしは、とふと思って、フランス語が浮かばなくなった。次の瞬間、突然、泣けてきて、はしゃいでなにかを言い続けるアルベールのフランス語のひびき、とてもありがたく感じ、フランス語ってこんなにやさしいことばやったんやナ、思うとわんわん泣いてしまい、アルベールがうろたえるほどだった。フランスに来てから大学院で知り合った文学インテリたちの、辛辣でときに傲岸不遜な言葉を思い、そういうのじゃない、ほんとうのフランス語を聞いたと思った。泣き止んでキスして「ウイ」、そのときトミコは腹をくくった。もうポコポコ産む、双子でも三つ子でも産む、決意するとはやいトミコは、勇気が身のうちに湧くのを感じたが、まだ胸がいっぱいでフランス語が出てこなかった。そして二人ともすきな、エラ・フィッツジェラルドの「ティスケット・ア・タスケット」をかけて踊った。かごを落としたひとのうた、おもってもいない誰かに拾われてしまう手紙のうた、偶然でかまわない。博士号はまたとれる。
 修士論文の提出と定期健診、注文椅子の締め切りにそれぞれ追われながら、ふたりあわただしく日本とフランスを行き来して両親に報告し合い、そこまでの大きな反対もなく結婚にこぎつけた。もともとトミコの父・敬一郎は、よくこれで社長がつとまるものだと思われるような、投げやりに見えるほどの鷹揚さがあり、それがまた、見方を変えると器の大きさにも見えるという人物だった。トミコが東京の大学に行きたいと言ったときも、フランスで勉強してきたいと言ったときも、おうそうか、だけで済ませてくれたこの父も、結婚してフランスで暮らす、妊娠もしている、と聞き、このときばかりはすこし寂しそうな顔見せ、おうそうか、ではなく、おう、うん、まあ、そうか、そうかア、と言った。出会いはほんとうは日本で言うところのナンパだということはうまいこと隠し、アルベールが働いている工房で椅子を買ったのがきっかけ、とちょっとロマンチックに言い換えると、いつのまにかほんとうにそうだった気がしてきて、文学ってこわい、とトミコはこころのなかですこしおもしろがっていた。けれど、複合姓にすることにだけ、父も母も友人も反対した。「田中コンドームて。」みんなそう言った。そして笑った。だいたいアルベール自身、お前コンドームやのに日本人の女の子妊娠させたってどういうことや、でも結婚おめでと! 、とフランスの友達に言われ、飲むと、一時間はこの話でみんなに笑われた。もうこの手のからかいに慣れているアルベールは、三十分くらいは、結婚の幸福感で鷹揚になっているので、自分でも笑っている。やがて三十分が過ぎたころ、アルベールは不機嫌になる。もうええんちゃうんか、言う。最後は決まって、俺の苗字、バカにすなや、と怒ってしまうが、怒るところまでふくめてアルベールと飲むたのしみだ、と仲間たちのほうは思っていた。怒ったアルベールは熱弁する。愛を冒涜すな、俺の苗字がコンドームなんはたしかにおもろいぞ、でもな、みんなコンドームなかったら困るやろ? 、一説によるとやけどな、コンドームっていう苗字の医者がむかしおって、その偉大な医者がコンドームを発明したんや、だからコンドームはコンドームって言う。わかる? ムッシュ・コンドームは偉大な男、この男がいたから防げた悲劇はたくさんあるはずや、それなのにみんなコンドームをくだらないもの、恥ずかしいものみたいに言って笑う、その態度は知的といえるか? 、俺は断言したい、コンドームの開発に男子一生を賭けたコンドーム氏は、フランスの誇りなのだ! 自由・平等・博愛・コンドーム! だから俺は表面的にはお前らとあわせて自分の苗字を笑っているが、心の底ではすこしも恥ずかしくないと思っている、わかったか? 、ここまで聞いて仲間たちは大喜びで笑う。もちろん、アルベール・コンドームが、そのコンドームを使うのを忘れた男だからである。

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