小説

『名前って、ふたつ以上の鐘の音』入江巽(『ラムネ氏のこと』坂口安吾『赤と黒』スタンダール)

 長男であるリュカが入学したとき、トミコはわが子の見た目が黒髪、茶色い瞳とはいえ、いわゆる「ハーフ」であることは間違いないので「ガイジーン」といじめられたらどうしよう、と人並みに息子を心配した。が、まあそういうことはなかった。問題は「田中コンドーム」という複合姓の苗字である。幼稚園では、先生や保護者はけっこう驚き、また陰では実はよく話題にされていたが、園児たちは「コンドーム」というものの存在を知る年齢ではなかった。だが、やがて少年少女たちはそれを知る。その瞬間はかならず来る。しかし、いつくるのだろう? 自分がコンドームというものの名称や用途をいつ知ったのかを考えてみても、トミコには思い出せない。ただ中学に入ったときには、自分はもう知っていた気がした。
 兄リュカが、小学校に入学するとき、教頭先生に呼ばれ、学校の中では通名として「田中リュカ君」として扱いたいと思うがどうか、強制ではない、とトミコは言われた。死に別れの夫・アルベールの痕跡が生活から消されていくようでさみしい気もして、戸籍上の本当の名前ですが、と少しだけ抵抗した。けれど、結局、折れた。たしかに苗字にコンドームという言葉が入っていたら、自分のことじゃなかったらやはりあたしも笑ってまう気がする、少し年をとり、複合姓にして結婚したときより、柔軟になっていたトミコは、妥協した。

 そんなわけで、ジュリアンが小学校に入学した日から、幼稚園では、たなかこんどーむじゅりあん、と戸籍名そのままだったジュリアンの名札は、たなかじゅりあん、に変わった。幼稚園なら、まあ、まだええかな? 、と母トミコはそのへんいい加減だったのだ。ピカピカかつポコポコな一年生であるジュリアンの胸、母トミコが書いた美しい文字、短くなってきらめき、ジュリアンは、友達百人できるかな、ポコポコと思いながら、大阪市営地下鉄・谷町線に揺られた。トミコは、ジュリアンに「うちの苗字長いから先生大変やからね。省略した」と説明する一方で、本当の苗字はひとに言ったらあかん、と繰り返して訓戒した。ジュリアンは、なにか隠されている空気だけはわかった。兄は四年生なので先に学校へ行っていて、ジュリアンとトミコ、ふたりで入学式へ向かった。

 夫・アルベールを交通事故でなくし日本に帰国、子どもふたり抱えているとはいえ、母トミコは楚々たる細身の美人で、かつ頭もよく、帰国後は、フランス語の通訳や翻訳者をしていた。また、ジュリアンとリュカにとっては祖父母にあたる、トミコの両親も健在で、なにかと頼ることもできた。トミコの父・敬一郎は、船場で三代続く、繊維問屋の社長だった。トミコは、そこのひとり娘で、かつて神戸女学院高校から上智大学へ進み、さらにエクス=マルセイユ第一大学の修士課程を修了していた。学部時代から専攻したのはフランス文学、修士論文はスタンダール『赤と黒』の日本での受容を扱った手堅いもので、恩師のフィリップ先生からの評価も高かった。ドクトラ(博士課程)に進まないかとも先生は言ってくれ、トミコ自身も半ば以上、そのつもりだった。だが、トミコは、マルセイユに来てから知り合った椅子職人のアルベールと激しい恋愛のさなかにもあった。修士論文の追い込みにかかりはじめた滞仏二年目、一九九五年の四月、風邪かと思ったが、もしやと思い調べると、あっさり妊娠していた。二十四歳のトミコは、しまった、とまず思ったし、アルベールは楽しいひとでだいすきだけどこういうときに頼れる男なのだろうか、と心細くなった。アルベールはトミコよりもっと若く、二十二歳だった。産みたい気もする。でも、産むことを想像すると自分のやりたいことが急速にせばめられるような不安を感じる。堕ろしたい気もする。でも、アルベールに「堕ろせ」と言われる自分を想像すると、それもとても悲しい。フランス語で修士論文を書くストレスでもともとはりつめたこころに、いろんな感情がズシンと響いた。その夜、トミコはけっこう泣いた。泣き疲れたころ、間借りした家具付きの小さな部屋のベッドのなかで、いろいろな思いの果てに、なんでコンドームちゃんとせんかったんやろ、あのひと、苗字がコンドームなくせにナア、つい盛り上がると忘れちゃってたナア、あたしらあほやな、と思ったら、すこしおかしくなって笑い、堕ろすにせよ、産むにせよ、とりあえず言わな、と眉間をひきしめた。

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