父の秘書に、鶴子さんという女性がいる。
見目麗しく、頭の回転がはやい才媛で、父からの信頼も厚い。僕が物心つくずっと前からいて、会社を支え、時に導き、そして成長させていった。
今の裕福な生活があるのは、彼女の才覚があってこそ、と言っても過言ではない。身内贔屓に父を見ても、人の良さこそあれ、商才には恵まれていない事は、火を見るよりも明らかであったのだから。
どうして彼女は父と袂を分かち、独立しないのだろう。彼女ほどの器量があれば、如何様にも身の処し方はあるだろうに。
父に訊ねると、困ったように微笑んで、こう言った。
「彼女はね、私のお父さんの、お父さんの、そのまたお父さんの、そのまたまたお父さんの、そのまたまたまた――なんだか、こんがらがってきた。とにかく、ずっとずっと昔から、うちの人たちのために、仕えてくれているんだよ。出て行ったりするはずないよ。これから先、ずうっとね」
その話を臆面なく信じられるほど、僕は子どもではなかった。かといって、それを信じているふりを出来るほど、大人でもなかった。
父は僕の不平を察したらしく、眉をハの字にして、より困ったような顔で、けれど人の良さそうな笑みを絶やさないで言った。
「予言してあげよう。君が結婚して、幸せな家庭を築いて、頭に白髪が交りだしても、鶴子さんは今のまま、若く、美しいままなのさ。その様子を見て、はじめて私の言い分の正しさに、君は気づくだろう。そして、可愛い息子か娘かに、猜疑の視線を投げられて、困らされるだろう。ちょうど、今の私のようにね」
父は流暢に嘘を並べられるほど器用ではない。胸を張って、鼻息が荒い様子をみると、あるいはその夢物語が真実であるのかもしれないと、錯覚しそうになる。不死身の人間なんて、いるはずがないというのに。
「ただし」と父は少しだけ畏まった声音を作った。「彼女が仕事をしている姿を、けして見てはいけないよ。これは大昔からの約束なんだ」
そんなわかりやすい誘惑に、うちの先祖たちは抗い続けられたのか。そうだとすると、彼らは筋金入りのお人よしだ。そういう血筋なのかもしないが、生憎と僕にはあまり引き継がれていないように思う。
百歩譲って、父の言い分が真実であったと仮定すると、その約束を最初に反故にするのは、きっと僕だろうと確信めいた予感があった。だから父の予言が実現する事はないのだろう。
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鶴子さんには、我が家の一室が宛がわれていた。広大な洋館においては、猫の額のように小さな一室である。