小説

『僕の恩返し』大森孝彦(『鶴の恩返し』『浦島太郎』『わらしべ長者』)

彼女が声高に主張すれば、日当たりも風通しも良好な上、館で一番の面積を誇る父の趣味部屋へと引っ越せるだろう。しかし、慎ましさを美徳とする鶴子さんは、そのような暴虐な振る舞いを善しとしないのである。
それに鶴子さんは、小さな部屋をとても好いている。年季のはいった樫の机に、湯気をくゆらせる緑茶で満たされた湯のみを置き、彼女以外の者が座ればぎいぎいと軋み続ける椅子に腰かけ、背筋に一本の線を通したかのように凛とした姿勢のまま、部屋に満たされた静寂を楽しむのである。
そういう彼女のあり方を、子どもながらに美しいと感じる。僕にはよくわからないのだけれど、もしかするとこれは初恋なのかもしれない。そうでなければ良いのに、と思う。だって、初恋は実らないとよく言うものだから。
基本的に、その小部屋は誰にでも開かれている。来るものは拒まず、去る者は追わず。彼女が留守でない限り、扉はいつでも開放されていた。
ただひとつの例外は、彼女が仕事に勤しんでいる最中だけである。扉は頑固おやじのように、固くその口を閉ざしてしまう。
暗黙の了解として、そうなっている時には、誰も彼女の部屋を訪れなかった。そういった空気を敏感に感じ取り、幼いながらに僕自身も、部屋に入ろうとせず、遊んでほしい際にも、部屋の前で忠犬のように待っていた事もある。その時は待っている間に眠ってしまい、「坊ちゃん。そのようにされていては、風邪の鬼に目をつけられますよ」と、優しく揺り起こしてくれたものだった。
父から忠告を受けてから、僕は忠犬ではなくなってしまった。扉の部屋が閉まっているのを横目にすると、どうしても開け放ちたいという誘惑が鎌首をもたげ、悪魔のように甘く囁いてくるのである。ちょっとのぞくくらい大丈夫に決まっているだろう、と。
ある日、僕はその誘惑に陥落してしまった。
頑固おやじも少しくらい頑張ってくれれば良いのに、鍵などかかっておらず、呆気なく扉は開いた。
そこには、白く美しい一羽の鶴がいた。
舞うように優雅に、両の羽を器用に用いて、パソコン操作をしている姿は、どこか喜劇めいていて、現実感が希薄であった。
さっさと姿を隠せば良かったろうに、しばらく呆気にとられて固まってしまった。そのため、鶴は僕という闖入者に気がついてしまった。
「坊ちゃん。私の正体を知ってしまいましたね」
その鶴は、彼女の声で言葉を発した。鳥類の表情は読み取れないが、その声音には緊張や非難の色がにじんでいた。
「鶴だから鶴子って、あまりに安直じゃないだろうか」と僕は言った。
混乱しているせいで、そんな事しか言えなかった。本心は、必死に引き留めたいはずなのに。
僕は、この先の展開を知っている。
恩義を受けた鶴は人に化け、恩返しをする。昔話では、機を織る姿をけしてのぞくなと言うが、誘惑に抗えなかった恩人は襖の隙間から、そっとのぞきこんでしまう。最期に正体を知られた鶴の化身は、涙とともに飛び立ってしまうのだ。
 僕の先祖たちは、これまでずっと、そんな誘惑に唆されずに、彼女とともに生きてきたのだろう。それをぶち壊してしまったのは、予想通りに僕であった。

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