小説

『まんじゅう二十個食べる、めっちゃ怖い』ノリ・ケンゾウ【「20」にまつわる物語】(『饅頭こわい』)

「田邊さん、ですか?」と私が言うと、
「ええ、田邊さんです」と女が言う。
 声をかけて来た女は若く、眼鏡をかけていた。二十代前半くらいか。私のちょうど向いの位置にある、小さくて黒い背もたれのある木椅子に座っていた。その女が、私の方を向いて田邊さん、と言っている。田邊さんと呼ばれて、はたして自分は田邊さんなのだろうか、と思う。少し考えてみても分からないので、なんだ、私は自分の名前すらも思い出せないのか、と情けない気持ちを感じながら、
「ああ、私は、都内からきましたよ」と答えた。都内から、という言葉はもちろんデタラメであったが、若い女性は、
「都内から、まあはるばるこんなところまで」と言う。一体ここはどこなのだろうか。
「ええまあ」と苦し紛れに答えると、今度は横から男の声で、
「あなたも田邊さんなんですね、こりゃ偶然」と言われ振り向くと、私と同じく黒いソファに腰掛けていた年配の男がこっちを見ていた。
「ということは、あなたも田邊さんなんですか」と声をかけてみると、
「そうなんですよ、私も田邊なんです。なんだか少し親近感が湧きますねえ」と田邊が言った。「ええ、そうですね」と相槌を打っておいたが、自分が田邊なのかは不確かなので、親近感などは感じられず、むしろ女が私を田邊と言ったのは、この田邊という男と入れ違って覚えていただけで、実は私の方は田邊ではないのではないかとも思い始めた。しかし私を田邊と思って疑わない二人は、「田邊さんが二人偶然揃うなんて珍しいですね」「ほんとですね、まあそんなに珍しい苗字でもないんですけど、意外と出会わないもんなんですよ、こういう風には」などと話している。女の名前は、橘というらしい。しばし田邊と橘と私の三人で話をしていると、これまで黙っていた、窓際にぽつんと置いてある籐椅子に座っていた若い男がこちらに寄ってきて、「まあまあ、世間話もいいですけど、そろそろまんじゅうでも食べましょうよ」と言い、田邊が、「おー、宮部さん、目が覚めましたか」と言ったのでその男の名前は宮部というようだ。寝ていたのか。「いいですね、食べましょう食べましょう」と橘が同意して手招きし、宮部はこっちにやってくると、私の座るソファの横にあるもう一つの丸椅子に腰掛けた。それから田邊が、「森さん、森さんも来て下さいよ、まんじゅうでも食べましょう」と声を上げると、今までどこにいたのか、体が以上に細い男がのそのそとこちらに向かって歩いてきて、「まんじゅうはあんまり好きじゃないんですけどね」と、ぼそぼそ言ってから、少しお辞儀をして席についた。これでようやく部屋の中の五人が揃って、二十個のまんじゅうを囲む形となった。
 五人が揃うと、それからいくらかの沈黙の後に、「じゃあ司会は私が」と田邊が口を開いた。周りの三人が、うんうん、といった感じで頷いて、「よろしくお願いします」と声を揃えて言う。司会とはなんだ。と思ったが、田邊をはじめ他の三人まで真剣な表情をまったく崩さないので私は何も言えず、ただ頷くことしかできなかった。すると、「田邊さんは…」と田邊に声をかけられ、「な、なんでしょうか?」と聞きかえすと、「不服はないですか? 大丈夫ですか?」と聞かれる。なんの話かと思って、戸惑い返答できずにいると、「私が司会で、問題ないでしょうか? という意味です」と言われ、私は慌てて、「問題ないです。大丈夫です」と答えた。田邊はほっとしたように、笑顔になって「よかった。しかし自分と同じ名前の人に話しかけるのって、変な感じですね、私はあんまり同じ苗字の人と知り合ったことがないから。別にね、珍しい苗字でもないんですけどね、えへへ」としつこく同じ話を繰り返して笑うので、私も合わせて笑っておいた。

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