小説

『はたちの狐』網野あずみ【「20」にまつわる物語】(『狐の嫁入り』)

「あれはな、狐の嫁入り」
 対岸の明かりを指さしながら、老女はそう繰り返した。
「…………」
「何十年も、何百年も待って、やっと相手が現れたんじゃろう」
「何百年も、ですか?」
 ひょっとこのお面をかぶった僕は、そのお面に負けないぐらい間の抜けた声を出した。
「そうさね。ずっと待ち焦がれてたで、そりゃあ、嬉しかろうな」
 提灯行列はどこへ向かうのか、ふわり、ふわりと山道を昇って行く。
「ほんだけ珍しい行列だもんで、それを見るとな、幸せになれるんよ」
 あ、だからこのおばあちゃんは、今幸せそうな顔をしているのか、と僕は妙に納得した。
「あんた、写真を撮るのが好きなんか?」
「はい。その一瞬を、ずっと残すことができるから、納得できる写真が撮れた時は、やった! と思います」
「ほうか、ずっと、残ってしまうんか……」
 俯いた老女の表情が曇ったように見えたので、僕は慌てて付け足した。
「でも、残したくない写真は、削除できますから」
「そんなに簡単なことかいね。じゃあ、頭ん中の写真も消せるかね」
「頭の中、ですか?」
 老女の問いかけに対して、僕は何の考えもなしに安直な答えを返した。
「それは、忘れてしまえばいいんですよね」
「忘れる? ……そうさな。忘れてくれりゃあ、いいけんどな」
 老女は一体何が言いたかったのだろう。僕には良く分からなかった。液晶画面に映った老女の横顔を見詰めながら、僕が何となく感じたのは、ひょっとしてこの人は、僕に写真に撮られたことを後悔しているのかな、ということだった。その時の僕の頭には、その程度のことしか思い浮かばなかった。
 僕は何度も画面の脇にある削除ボタンに指をかけては、その写真を消してしまおうかと迷ったが、結局、削除するのはやめた。狐の不思議な話とともに、僕の心に強く刻み込まれた一枚だったからだ。
 こうして、残された老女の写真は、僕のカメラの中で生き続けることになった。

 毎朝新聞写真コンクール、学生の部大賞作品。
「夕日に向かう老女」
 副題、過ぎし日に想う。

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