小説

『はたちの狐』網野あずみ【「20」にまつわる物語】(『狐の嫁入り』)

「お兄さん、カメラをやりなさるんなら、この先の神社に行ってみるといいだよ」レンズを向けると笑いながら顔を隠してしまった仲居さんが、そう勧めてくれた。
 温泉に入るのは後にして、取りあえず勧められるがままに、裏山にあるという稲荷神社に行ってみることにした。
 旅館の浴衣に半纏姿でカメラのみを手にした僕は、下駄の歯音を不器用に響かせながら、旅館街の坂道を歩いて行った。時おり立ち止まってカメラを構えていると、水が岩をたたく音に重ねて、カナカナカナと寂し気に鳴く蜩の声が、耳に沁み入るように聞こえてきた。夏も終わりに近づいている。
 神社に向かう長い階段の両脇には、風雨に晒され擦り切れた赤い幟が、道案内をするかのように立ち並んでいる。辛うじて、「城山稲荷」という文字が読み取れた。浴衣の前がはだけるのも気にせず、僕は仰ぎ見るようなその石段を、一気に登って行った。
 息を切らしながら最上段に立ち、振り返ると、思わずオッと声の出るような眺めが広がっていた。僕はすぐにファインダーをのぞいた。
 先ず目に飛び込んできたのは、落ちゆく夕日が放つ焼けるような赤と、その前に立ちはだかる山々の深く重い黒。そして、茜色に染まる空は視線をあげるほどに藍の色を濃くしている。
 そんな色彩の対照と濃淡が描き出す一瞬の美しさに、僕は狙いを定めた。
「学生さんかね」
 思わぬ声に、僕はカメラごと横を向いた。ファインダーにぼやけた人型が現れ、瞬時にフォーカスされた。年老いた女性のにこやかな顔が、こちらを向いていた。
「今どきのカメラだね」
 僕は気がつかなかったのだが、参道に向かう赤い鳥居の脇の石段に、着物姿の老女がひとりで腰かけていた。彼女の着物は、藍染めの生地に朱色の帯と、目の前の景色をそのまま映したような色合いのものだった。
 絵になる、と僕はカメラを構えなおした。「おばあちゃん、写真を撮ってもいいですか?」
 老女が小さく頷くのをファインダー越しに確認して、僕はシャッターを切った。とても印象に残る笑顔だ。――ああ、そうか。この福顔。おかめ、そのものじゃないか。
「おばあちゃん、カメラ詳しいの?」
 ファインダーから目を離さずに、僕は老女の顔にカメラを向けたまま、そう尋ねた。
「詳しかないが、ライカというのは知っとるよ」
 ライカという言葉がまるでしっくりこない老女の顔は、見れば見るほど、おかめのお面でもかぶっているように見えた。
「ほら、あんた、あれ」
 思わずカメラから顔を離し、老女の指さす方に目をやると、薄靄に包まれている足元の旅館街から遠く離れた川向こうの山道に、妙な明かりの列が点滅しているのが見えた。それは川面に飛び交う蛍のようにふわふわと揺れながら、一列になって道を昇って行く。

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