小説

『はたちの狐』網野あずみ【「20」にまつわる物語】(『狐の嫁入り』)

 そう声をかけて和恵に近づこうとした秋吉は、狐の面に見据えられて思わず足を止めた。
「来るな!」
 意外なほどはっきりとした声が、木々の間に凛と響いた。
 秋吉は咄嗟にカメラを構えた。彼女を正面から捉える絶好の機会だった。
 倍率を上げたレンズに映し出された小袖の白も、袴の赤も、みすぼらしいほどに薄汚れていた。もちろん足元の足袋は土にまみれている。しかし、狐の真っ直ぐ過ぎるほどの視線は、カメラを易々と透過して秋吉の心を貫いた。心臓が高鳴る。
「大丈夫なのか? 心配しているんだ」
「心配ない」
「顔、怪我しただろう。お面を外して見せてごらん」
 狐の面のこめかみの辺りに傷がついていた。投げつけられた小石が当たったのかも知れない。
「駄目じゃ。じいの面はとれん」
 カメラとお面越しの不思議なやり取りだった。その会話を記録するかのように、秋吉はカメラのシャッターを切っていった。
「何故、狐の面をしている?」
「じいの言いつけだから」
「言いつけ?」
 秋吉は、氏子の奥さんが去り際に呟くように口にした言葉を思い出した。「二十を過ぎとるのに、おぼこのまんま。顔に痣があるけえ」
 秋吉はカメラから顔を離し、何も言わずに和恵に歩み寄り、その隣に腰かけた。和恵は真っ直ぐ前を向いた姿勢のままで、重ねて秋吉を拒むことはなかった。カメラは膝の上に置いておいた。
 どこかで山鳥がバサバサっと威嚇するような羽音を立てた。小楢や椚の大木に囲まれたその位置からは、参道の先にある開けた景色を見ることはできない。
――彼女はここで、何を見ているのだろうか?
「じいが言っていた」
 秋吉の隣で、すっと胸を張った和恵が、期待に満ちたような声を上げた。
「狐はな、はたちで嫁に行くんだと」
 ふとした風が木々の葉を揺らし、狐の顔の上で木漏れ日が揺れた。
「二十? しかし、君はもう……」
 言葉に窮し、どうにも居たたまれなくなった秋吉は、和恵に背を向けて立ち上がった。彼女の愚直さが腹立たしかった。
 いや、何もしてあげられない無力な自分がいけないのか、それとも、彼女をそうさせておく周りの者に腹を立てるべきなのか……。秋吉は気持ちの収まりがつかないままに、その場を去った。

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