小説

『にじゅうのうた』洗い熊Q【「20」にまつわる物語】

 より軽快に。重力を忘れるほど浮き出す感じに。それに併せて音色は波の様に打ち寄せてきていた。
 これでもかってだだっ広い、真っ白な砂浜に似た楽譜の上を、音符の彼女は跳ねるように走っている。僕の僅かな前を、清々しい気持ちいい旋律の風の中を、胸一杯に感じながら。
 五線譜に波打つ音色は生き生きと打ち寄せながらも、優しさの香りで包み込んでくれていて。
 ――そして気まぐれに彼女は振り向いてくれた。「ほら、こっちに来なよ」と微笑んでくれた。
 また彼女は走り出す。
 突き抜ける蒼空に旋律の風は向かっていって。引き潮となった音色は、広大な世界へと還っていって。
 走り去って行く先には、目映いばかりの煌めいた光に包まれて。
 彼女は、その光の先へと朧気に消えて行っていた――。

 

 カップに湯気たつブレンドコーヒーを眺めながら、僕は茫然としていた。
 彼女の演奏が終わってから暫く、頭の中は真っ白に。
「大丈夫ですか?」と声を掛けてくれたのは店長だ。
 先程からぼうっとしている僕を心配してだろう。
「……ええ、まあ。なんとか」
 ようやくと声が出せた感じだ。まだ、足元はふあふあした感覚だが。
「いきなり演奏が始まったからビックリしたでしょう。いつも、そうなんですよ、彼女。前振りなく始めてしまう癖があって」
 店長は笑いながら言っていた。

 彼女は恍惚に演奏を弾き終えると。
 大げさな挨拶を僕に向かってして、特に何も説明もなく、意気揚々と満足げな顔で店を出て行ってしまったのだ。
 名前は疎か、逢った事があるかすら確認も取れずに茫然自失の僕を置き去りである。
 何が起きたかよりも、何も言わない事に唖然として声を掛けられなかった。

「あれは“にじゅうのうた”ですね、きっと」と店長が言った。
「にじゅうのうた??」
「彼女曰く、これから成人になる人や、大人になろうとする人達を応援する曲らしいですよ。それで演目が“にじゅうのうた”」
「……成人の為だったら“はたちのうた”って付けませんか? と言うか、僕はもう三十半ばの人間なんですが……」
「まあ、色々と拘りがある娘なんで……深い意味のない題名だと思いますけどね」と店長は苦笑いだ。
「それに“うた”って……歌ってないじゃないですか。普通は曲って付けません?」
「ああ、偶に歌いますよ。彼女が」
「えっ歌う? 偶に?」

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