顔を天井へと向けたまま、彼女は流すような眼で僕を見つめる。
思わず大きく頷き返す、僕は。
それを見て彼女は歯を見せるように笑った。
「何か大事な想い。やりたい事があるんすよね? だから来るんすよね? それをどうしてもやりたくて、どうしようもない」
言った瞬間だ。反り気味の体を反動で元に戻す様に。鍵盤に寄ったままに、溢れ出る音を聞き漏らさまいと彼女は耳を近づけていた。
「それを今、言わないで下さいな。言わなくて良いんですよ。心に思い浮かべるだけで。今の自分の中に一杯に、精一杯に広げて見て下さいな。これでもかってくらいにね」
何もかも見透かす瞳。それを僅かに僕に見せると、彼女は体全部を揺らして、奏でられる音色へと預けて行っていた。
複雑な旋律が高音方へと昇り詰め、そしてその先へ。
溶けるように淡く消えていって。
僅かに残こる香りの様に、心地よい余韻を響かせながら、その音の中から軽妙な新しい旋律が突然に現れて来る。
歯切れ良いコードを。スキップしている伴奏を。軽快にひょっこりと顔を出していた。
喋り掛けている、音が。聴かせているんじゃない、聞いてきてくれているんだ、音色が。
重々しく神妙じゃない。もっとライトに、ポップに。ちょっと僕の肩に頭を擡げながら「聞かせて」と言ってくれているんだ。
一気に自分の視野が広がった感覚を覚えた。今までは一部を、集中して、じっと睨みつける視線だった。
――今は全体を見ようとしてる。
視野部分も、それに写らない背景さえも。見るんじゃない、感じようとしているんだと。
目の前で演奏する彼女の姿も、上から下まで、鍵盤を撫でる繊細な指の動きも感じとっている。
彼女は身体全体を軽快に振ってリズムを刻んでいた。
溢れ出す旋律を。包み込む音色の泡を。もう、その音しか聞こえない世界の中で。
彼女の語りがしっかりと僕の耳には届いていた。
「――大人になるって素直にならない事なのかも知れませんね。気を遣ったり、色々と考えないといけない事がいっぱいだから。
でも、それも大切なんですよね。
落ち着いて、しっかりと見ないといけない事があるんだから。
素直になれていないのは子供の自分。
ついつい捻くれちゃって、見栄はっちゃって。恥ずかしがり屋なんですよね、そういうところ。
だから言って上げなきゃ、子供の自分に。“素直になりなさい”って、自分がね。
そしたら、きっと本当にやりたい事なんて直ぐ見つかりますよ。出来ますよ。叶いますよ。
それが出来てる人――素敵な大人なんでしょうね」
一拍おいた瞬間、旋律が一気に走り出していた。