小説

『大盛カツカレーセット』加陶秀倖【「20」にまつわる物語】

 すると、土井君は眼球だけ高速で動かして森さんを見た。そしてあきらかに森さんを気にしながら、ゆっくりとコップを口に近付け、いっきに飲み干した。そして口のなかをからにすると、めずらしく、みんなに聞こえるくらいの大きな声で言った。
「がちそうさまでした」
 もちろん土井君は「ごちそうさまでした」と言おうと思ったのだろう。しかし、大盛カツカレーセットとの激闘の後に、大きな声を出すという慣れないことをしようとしたために、大事なところでかんでしまったのだ。
 けれども、それが功を奏した。みんなは一斉に大笑いしたのだ。必死に食べ終えた後に、「がちそうさまでした」なんて見事な緊張と緩和。いや、そもそも夏のサークル旅行という雰囲気、重苦しい土井君待ちから解き放たれた解放感、その両方が相まって、みんなは心の底から大笑いをしたのだ。
 土井君はこのうえなく満足げな表情でまわりを見ながら、すでにからになっているコップにもう一度口をつけた。水を飲もうと思ったわけではなく、この状況を心のなかで昇華するために何らかのアクションが必要だったのだろう。均衡を保つために意味のないアクションせざるをえないくらい、土井君の心は幸福に満たされていたに違いない。
 土井君は満足げな顔をしている。みんなは楽しそうに笑っている。きっと僕も、みんなから見れば楽しそうに笑っていたのだろう。しかし、僕の顔の筋肉は不満を抱いていたに違いない。
 何を笑うことがあるのか。何がおもしろいのか。顔では笑いながらも、僕の心のなかでは臭気漂うドブ川のうねりのような陰鬱な思考が渦巻いていた。こんなに時間をかけて、みんなを待たせて、ひとりで勝手に無理して大盛カツカレーセットを食べて、まったくいい気なもんだ。これで人気者になったつもりか。お前はなにもすごくない。サークルの人が良い人ばかりだから、この場が成立しているだけで、お前自身にはなんの魅力もないし、お前がおもしろかったことなんて一度もないんだからな。車のなかでだって安藤先輩のおかげでみんなが笑ってくれているだけで、お前がおもしろいわけじゃないんだ。勘違いするなよ。大盛りカツカレーセットを食べたからってなんなんだ。なにもすごくない。時間ばかりかけやがって。勘違いするなよ。お前はなにもすごくはないんだからな。
 僕はぐるぐる回る思考のなかで、いつしか大声で叫びたい衝動にかられていた。この茶番を大声によって異質なものに変えてやりたい衝動に駆られていたのだ。
 が、寸でのところで救われた。部長の声で我に返ったのだ。
「じゃあ。そろそろいきますか」
 それから会計をすませ、芝生のところで少し休憩をすることになった。その間にトイレに行く人はトイレに行くということで、みんなそれぞれ芝生のベンチに座った。
僕は土井君の顔を見るのもいやだったが、土井君は僕の隣に腰を下ろした。
「いやぁ。もうお腹いっぱいだよ」
 土井君が言葉を発したようだった。それが僕に向けられた言葉だということは理解できた。けれども、聞こえないふりをした。僕は芝生に目を落としたまま返事をせず、腹の底が熱くなっていくのをなんとかおさえようとしていた。
「わらじとんかつが大変だったなぁ」

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