小説

『大盛カツカレーセット』加陶秀倖【「20」にまつわる物語】

 部長の声は僕には届いていたので、当然土井君にも届いていたのだろう。けれども、土井君は聞こえないふりをしていた。
 すでにトイレに行っていた人たちも戻ってきており、店員のおばさんと部長、土井君はみんなの注目を集めていた。そのなかで、土井君は部長を無視していたのだ。
「おい、土井、ちょっと来いよ!」
 もう一度、部長が土井君を呼んだ。温厚な部長にしてはめずらしく、声を荒げていた。
 土井君はそれでもまだ無視をしていたが、さすがにまずいと思った僕は、土井君に言った。
「土井君、さっきから部長が呼んでるけど」
 すると土井君は、さっと顔を上げると、「え?」と言った。そしていま気付きましたというような顔をして、立ち上がり、目をきょろきょろさせながら部長のほうへと歩いて行った。部長の顔は怒りに赤らみ、目は充血してしっかりと土井君を睨んでいた。
 すでに僕のなかには、土井君を殴りたいという衝動はなくなっていた。ただ、なぜかすごく悲しい気持ちになっていた。なにが悲しいのかは分からなかった。土井君が悲しいのか、部長が悲しいのか、店員のおばさんが悲しいのか、僕自身が悲しいのか、サークル全体が悲しいのか、それらはまったく、どれも本当のような気もするし、どれも本当でないような気もした。

 それから夏休みのサークル旅行がどうなったか、正直あまり覚えていない。旅行はつつがなく継続され、それなりに楽しかったような気もするのだが、なにがどうだったかという思い出はまったくない。
 あれから土井君がどうなったか、それもあまり覚えていない。夏休みが終わり、学校が始まったころには、サークルに来なくなっていた。たまに学内で顔を合わせることがあったが、心なしか避けられていたような気がする。僕もあえて土井君に話しかけようとは思わなかった。
 いま、土井君がどこでなにをしているかは知らない。だが、時折ふと、なにかの拍子に、あの時のことを思い出すことがある。

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