小説

『大盛カツカレーセット』加陶秀倖【「20」にまつわる物語】

 例えばこの後、三回生の権田先輩がずっと右ウィンカーを出しっぱなしのまま走っていたということをその車に乗っていた山下がみんなに報告したが、これも笑いになった。また、二回生の目窪先輩がシートベルトをおでこのところで締めて笑いをとろうとしていたのにみんなに無視されていたとか、一回生の野田が車が揺れたときに水を気管支に入らせて咳き込んだために隣の二回生の沢岸先輩に毒霧のように吹きかけたとか、みんなそれぞれテーブルに置かれたメニューを見ながら車中のハプニングを披露し合い、そのたびに笑いが起きた。
 それからほどなくすると、全員頼むものが決まったようだったので、部長が店員のおばさんを呼んだ。
 なんとなくの流れで僕らの席から注文していくことになった。部長、安藤先輩、森さん、園田さんと注文していき、僕の番になった。僕はかきあげ丼が食べたかったが、定食にしてそばもつけるかどうかで迷った。結局、食べきれないといけないので単品でかきあげ丼を注文した。
 次は土井君の番だった。みんな頼むものを決めたということで部長が店員のおばさんを呼んだのだが、なぜかその時、土井君はメニューに目を落としたまま黙っていた。誰もなにも言葉を発しないため、妙な間が生まれた。ほどなくしてみんなは土井君に注目したが、土井君はまだ黙っていた。
 見かねて部長が言った。
「あれ、土井は決まってなかったか?」
 けれども、土井君は黙っている。真剣な顔をしてメニューを凝視している。少し鼻息が荒い。
 また部長が言った。
「じゃあ、後回しにしようか」
 と、その時、土井君はガッと顔をあげると、大きく息を吸い込み、店員のおばさんのほうに鼻息を浴びせかけるようにして身を乗り出し、言った。
「大盛カツカレーセット!」
 一瞬、お店の喧騒は鳴りを潜め、あたりは静寂に包まれた。誰もが耳を疑った。いま土井君はなんて言ったのか。誰もがそれを知りたがっていた。誰もが確認したがっていた。土井君はいまなんて言ったのか。まさか大盛カツカレーセットなどとは言ってはいまい。
 その静寂は、おそらく一秒か二秒の間だったのだろう。しかし僕には、未来永劫途絶えることなく続く静寂のように思われた。このまま宇宙の時間が停止して、この世は永遠に今の状態のまま固着してしまうのではないかと思われた。
 が、その固着を防いだのは場の空気を読むのがうまい安藤先輩だった。
「おぉ、土井君。いくねぇ」
 安藤先輩の声によってみんなに血の気が戻り、時間が流れ始めた。山下もあわてて呼応した。
「土井君、やるねぇ」
 そこでやっとみんなは状況を完全に把握できたようだった。土井君が大盛カツカレーセットを注文したという現実を、やっとみんなは受け入れることができたようだった。

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