小説

『影』広瀬厚氏(『草枕』)

 良子ちゃんに案内され五番の部屋へ行った。なんて事のない和室であるが、隅々まで良く手入れされている感じをうけた。
「綺麗にしてあるね。清潔感がある。いい部屋だ」
「ひまで掃除ばかりしてるから」良子ちゃんが言う。
「よく降るね」自分は窓の外を見て言った。
「ほんとに。あっそう言えば、うち基本的に素泊まりなんですけど、簡単なものでよければ夕飯なにか用意しましょうか?」
「いや、外へ食べに行くからいいよ。そうだ、よかったらおごるから一緒に行かないかい? どっか知ってるところへ案内してよ。でもあれか、他にお客さんきて仕事しなきゃいけないかな」
「いや大丈夫、行きましょう。おごってくれるんですか嬉しいな」
 はんぶん冗談で良子ちゃんを食事に誘ってみたら、少しも躊躇せずあっさり了解してくれるので、自分はかえって驚いた。
 日常をはなれ、知らぬ街の風景の一部となり、情を入れず、ただたんたんと過ごすつもりの旅が、なんだかだんだん三文小説のようになってきた。これと言って話のすじのないのがまだ救いである。これで起承転結しようものなら、油っこくて、腹から嫌なげっぷが口を出そうだ。
 日暮れ前あれだけ降っていた雨がすっかりあがった。日が暮れて時折薄雲のきれまから月が顔を見せるまでになった。明日は晴れそうである。

 自分は良子ちゃんと二人旅館を出た。おかみさんは玄関の外、いってらっしゃいと客と娘に手をふった。この晩結局旅館の客は自分ひとりであった。これで経営は大丈夫なのかと他人事ながら少々心配になった。
 見知らぬ夜の街を今日初めて出会った女性と二人歩く。街の風景が昼間とまったく違って自分の目に映った。昼間寂寞を覚えた街並が、夜のネオンにつつまれて、どこか懐かしみをもって暖かく感じられた。
「あれっ、カメラは持ってこなかったんですね」
「うん、持ってこなかった。だけどなかなか良い画がさっきから撮れてるよ」
「えっ? なんかよく分からないけど面白いこと言いますね」と言って、良子ちゃんはおおらかに微笑んだ。
 正直に言う。自分はこの明るい女性に心ひかれている。そしてその事に自分で驚いている。それはなぜかと言えば、彼女は今まで自分をひきつけてきた女性のタイプとはまるで正反対のタイプであり、それどころか今までならば、軽蔑の対象となってもまったくおかしくないタイプだからである。なぜ彼女にひかれるのかは自分自身ちっとも分からない。けれども実際、自分は彼女に魅力を感じている。だが何か、もう一つ足りない。
「あっ、そうだ。昼も行ったけど、またトキさんの店でもいいかもね」自分は言った。

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