小説

『影』広瀬厚氏(『草枕』)

「そう、今はひとり。ずっと主人とふたりでやって来たんだけどね、三年前に主人が亡くなってからはひとりでノンビリやってるわ。畳もうかとも思ったんだけど、少ないながらも常連さんがいることだし。ああそうそう、繁盛してひとを雇ってたこともあるわよ。良子ちゃんて言って明るい娘さんで、あっ、今じゃもう三十過ぎてるんだけど。でっ、良子ちゃん今でも店にきてくれるの。器量がいいのに未だ独身でね、はやく良いひと見つけなさいってわたし言うのよ。するとね………
 ほかっておいたら延々と続きそうな婆さんの話に、いい加減に耳を傾けながら、自分はメニューを開いた。
 えっ? と自分の目を疑った。ビストロ亭はまったくフレンチではなかった。洋食屋とも言いがたい。ハンバーグ、カツレツ、ハヤシライス、カレーライス、などに混じって、うどん、そば、お刺身定食、などなど節操なく雑多にある。やたらに料理の品数が多い。果してこれ全部、婆さん一人でこなせるのだろうか?
 婆さんの話は続いている。BGMが夜来香からいつの間にやら蘇州夜曲に変わっている。自分は婆さんの話に口を挟んだ。
「あ、あのぅ… 」
「えっ、あぁ注文決まった?」
「これ全部できるんですか?」
「そうそうヤダァ~、よけいな話に夢中になって言いそびれちゃった」そう言って婆さんはアハハと笑う。
「何個かメニューの横のとこに赤いペンで丸うってあるでしょ。今はもうそれだけしかできないの。あっ、ごめんごめんそう言えば、丸うってあるけど今日はアジフライもできない。そうそう、今日アジがね………
 と、またまた婆さんの話が始まった。
 メニューに羅列する多くの料理の中にあって、赤丸がうたれているのは僅か七品目。その内にあるアジフライ定食は今日できない。となると残るは、ハンバーグ定食、生姜焼き定食、餃子ライス、チャーハン、カレーライス、うどん、の六品目。何の変哲もない平々凡々たる献立である。相変わらず外からは、激しく雨の降る音が聞こえてくる。
 これでは自分以外客が来ないのも納得できる。やる気の見えないところが却って好ましい。これで屋号がビストロ亭なのも面白い。腹がふくれりゃ何だっていいや、と最初に目に留まったハンバーグ定食を注文しようとした時店の扉が開く音がして、自分は思わずふり向いた。
「いやあ、まったくひどい降りようだよ」
 グレーのスーツを着た初老の紳士が、畳んだ傘を入口にある傘立てに立てながら言った。
 傘がない。自分は自分の傘がないことに今更ながらも気づいた。男の言ったとおり外はひどい雨である。
「しまった。傘がないな…… 」つい自分の口を出た。それを耳に婆さんが言った。
「心配しなくて大丈夫だから。傘なら傘立てに何本かあるから、帰りどれでも好きなの持ってきなさい」
「そうですか、それじゃお言葉に甘えて。すぐまた返しにきますから」
「いい、いい。いつだっていいんだし、別に返さなくたって構やしないよ」
 会話の途中、男は自分と一つ席を空けカウンターを前に座った。

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