小説

『影』広瀬厚氏(『草枕』)

 自分自身、ただ街の風景となり人の臭気を消し去りたいが、そうもいかない。腹がへった。腹がグウと鳴る。パアとは鳴らぬ。相手がチョキなら腹の勝ちである。と、腹がへって思考が要らぬ方向へ走る。時計を見ると正午をとうに過ぎている。腹のへるのも仕方ない。
 曇天のなか時折日射しがあったのが、急にどんよりと、空が低く重くなってきた。今にもザァーと雨が降ってきそうだ。昼にあって日が暮れそうな街の景。と自分の目に、小さな洋食屋の看板が留まった。ビストロ亭とある。フレンチか知らん? 敷居は低い雰囲気である。何はともあれ先ほどから腹がグウと鳴っている。自分は腹の音をとめに、洋食屋の扉を中に入った。
 テーブル席が三つとカウンター席のこじんまりした店内であった。テーブル席にはそれぞれ対面して椅子が四脚。カウンターを前に椅子五脚。一応電気は灯っているが、音楽も何もかかっていない。シーンと静かである。客が一人もいない。それどころか店の者の影もない。やっているのだろうか? 自分は首をかしげた。ふり返り、今入った扉を見た。このまま扉を外に出るのも何なので、自分はカウンターを前に、席に座った。肩からストラップを外し、カウンターの上、カメラを置いた。
 五分ぐらい経っただろうか、さすがに自分は席を立とうとした。その時、奥からひょっこり年配の女性が顔を見せた。七十は過ぎているよう思われる。白髪まじりの髪を後ろで結っている。背は低く少々前かがみに歩く。失礼かも知れないが取り敢えず、女性のことを婆さんと呼ぶことにする。
「こんにちは。ひょっとして今日休みでした?」自分が尋ねると、
「どうぞどうぞ」と、婆さんは質問に答えず、言う。
「えっと…… 営業して…る?」
「どうぞどうぞ」
 いぶかる自分に婆さんは再びどうぞどうぞと繰り返し、
「ザァーッと降って来そうだね」と、唐突に言う。
「はぁ」
「いま水だすわね」
「はい」
 どうやら営業しているようだ。有線のスイッチでも入れたのか、静かだった店内に懐メロが流れた。夜来香である。良い曲だ。依然店には誰も入ってこない。客は自分一人ぎりである。夜来香をかき消すように、突然ザァーッと、外から激しく聞こえてきた。カメラは手に取らぬが、自分は方寸でシャッターを切った。なかなか良い画が撮れたと、一人満足を覚え頷いた。
婆さんが水とメニューをカウンターに出した。婆さん一人でやってるのだろうか、自分は疑問をそのまま口に出した。
「店はひとりでやってるんですか?」

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