「そう言えばこの辺りに適当なホテルか旅館あったら教えてほしいんですけど」
「前に話した良子ちゃんのところなんてどうかしら。素泊まりしかできないけど」
「えっ…… 良子ちゃんのところって?」
「あら、話聞いてなかった? 前にうちにいた子で今でもたまに顔を見せるって、わたしが早く結婚しなさいって言うとお母さん残して行けないって、お母さんと二人で小さな旅館やってるって、お父さん亡くなってから手伝うようになったって、旅館すぐそこだって」
「…あぁ、そう言えばそんなような事言ってましたね、ああそうそう、そうでした」
と、自分はごまかし言った。本当は話に耳を傾けつつも右から左に抜けていて、初めて聞いたも同然だった。
トキさんが部屋が空いているかどうか、わざわざ電話をして聞いてくれた。空いていると言うので、自分はその宿で素泊まりする事に決めた。
黒の地味なコウモリを借りて店を出た。車が水をはね、通りを走る。ワイパーがせわしなく左右に動く。昼間でも薄暗いので、ヘッドライトの明かりがともる。ほとんど人影を見ない、うらさびしい街並を傘をさし、ひとり歩く。トキさんに言われたとおり、薬局のかどを左に曲がる。と、すぐ右に。
気にせねば気づかずに通りすぎるだろう小さな旅館がそこにあった。旅館〈長田〉とある。名字だろうか。自分は軒下で傘を畳み、長田の玄関引戸を引いた。
「こんにちは」と奥に向け言った。するとすぐに女のひとが奥から出てきた。良子ちゃんだろうか、綺麗な女性である。
「こんにちは。あっ、ひょっとしてトキさんから電話があった、写真家のかたですか? 」たいへんはつらつと話す。
「はあ、写真家ってそんなことも言ってたんだ。はい、トキさんから紹介してもらったものです」
「どうぞどうぞ」と、女性はトキさんと同じように言う。
「えっと… 良子さん?」自分は短く聞いた。
「はい、そうです。良子です。トキさん何か私のこと言ってましたか?」
「ええ、器量の良い明るい女性だって」
「やだ恥ずかしい、照れちゃうわ」
良子ちゃんは元気に笑いながら顔の前で手のひらをふった。本当に明るい女性であると、自分はそんな彼女を見て思った。
受付の小さなカウンターの中におかみさんはいた。上品な物腰の年配者である。自分はカウンターの上、宿帳に住所氏名を記入した。宿泊する部屋についておかみさんが言った。なんでも両手でじゅうぶん足りる少ない部屋数であるが、そのすべての部屋が空いているので、どこでも好きな部屋に泊まってもらって構わないと言う話だ。自分の横にいた良子ちゃんが、どこそこの部屋が良いんじゃない? と、カウンターの中に顔をつっこみ、母親に言った。まあそうねと、おかみさんは娘に返した。どうかしら? と親子そろって自分に聞くので自分は、任せる、その部屋で結構だ、と二人に応えた。