小説

『影』広瀬厚氏(『草枕』)

「トキさん、例のやつ今日はできるかい?」男が言った。トキエ、トキコ、トキ? 婆さんをトキさんと呼ぶ。
 例のやつ? 何か裏メニューでもあるのだろうか。自分は思った。
「あっ、そうそうお客さん。ビーフシチューもできるから」トキさんは男に応えず、自分に言った。
「ここのビーフシチューは絶品ですよ。トキさん気まぐれで拵えるから今日は運がいいです」男が自分に言った。
 絶品と聞いて食わぬ法はない。自分はビーフシチューを誂えた。男も当然とビーフシチューを誂えた。サラダとライスも一緒についてくると言う。カウンターの上、無造作に置いたカメラを見て、男が言う。
「良いカメラをお持ちですね」
「いえいえ、ただ古いだけのポンコツです」
「またまたそんな。わたしも特別くわしいわけじゃありませんが、このカメラは良いものだと分かります。ひょっとして写真家さんとか?」
「まあそうと言えばそんなようなものです」
「やっぱりそうですか。ぱっと見て何かそんなような感じがしました。この街へは写真を撮りに?」
「まあそうと言えばそんなようなものです」と自分は、先と一字違わぬ言葉を返した。
「特に何もないでしょここらは。良い写真は撮れましたか?」
「ええ何枚か。まだ一度もシャッターは切ってませんけど」
「はあ…… 」と男は、二文字で言葉につまる。
「あらゆるものの影と光をただそのままに受けとめれば良いんです。ただそれだけの事です」
「なるほど」と口にしつつ、男はどこか要領をえない顔をした。
 そのうちビーフシチューがカウンターに出された。ライスとサラダも出てきた。見た目にもかなり本格的な風だった。ナイフとフォークにするか箸にするか、トキさんが聞いた。自分はナイフとフォークを選んだ。男には、いつも通りであろうナイフとフォークが、応えずとも出された。
 見た目だけでなくビーフシチューはじっさい大変に美味しかった。なるほど男の言ったとおり、絶品と言って過言でない。ビストロ亭のトキさんの拵えるビーフシチューは、自分のお気に入りの一つとなった。そうとなると、ハンバーグ、生姜焼き、アジフライ、餃子、チャーハン、カレー、うどん、とありきたりな品々さえ全部気になってきた。けれど、もう腹はじゅうぶんふくれた。また機会をもうけて、このトキさんの小さな食堂を訪れよう、と自分は思った。
 自分が店を出る前、三人組の女性客が入ってきてテーブル席に座った。彼女らも常連さんらしかった。なかの一人がやはりビーフシチューをオーダーした。あとの二人はそれぞれハンバーグ定食とカレーライスをたのんだ。
 自分が店を出ようとした時、雨の勢いはだいぶ弱まっていた。とは言え、依然良く降っているので、言葉に甘え傘を借りる事にした。店を出るきわ自分はトキさんに尋ねた。

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