「あの子は脱皮しようとして、もがいていたし、リクミさんは戸惑い、親であり子であることに捉われて身動きできないでいたからね。むしろ恐れていたといったほうがいいかな。子供が大人になることを恐れるように、親になることをね。わしらがそうであったように、子はひとりで育つものだよ。その成長があるから、リクミさんはよい親になれると思うんだ。リクミさんにとって、とても大切な心の葛藤だからね、見守っていたよ、ずっと、でも、ほんとうはじれったくて仕方がなかったけどね」爺は思い詰めた少女のような目のリクミを見て、明るく歌うように笑った。
「でも、そうやって、皆それぞれの旅立ちを繰り返して、歩んでゆく。どこまでも、どこまでもね。だからいつかは別れてしまうけど、また出逢いもあるんだ。そういったすべてが愛すべき人生ではないかなぁ。この老いぼれ爺もね、どれほどたくさんの別れと、涙、出逢いの喜びに打ち震えたかしれんよ。それも、いまでは遠い過去のものになってしまったけど、成長とはやまないものだね。リクミさんと出逢って、いくつもの大切なことを教わった。愛妻を見送ったあとだったから、リクミさんやアユムくんにはずいぶん助けられたよ。もうなにもかも知っていたつもりだったのにね。そしていつかは、わしも死ぬだろう。アユムくんのまっすぐな成長を見て、すこしだけ、ひとりで死ぬ心構えができたような気がする。それも新たな旅立ちだからね」
話を聞きながら、ふと見ると、棋譜の本の上に岸葉子さんの本がある。リクミもエッセイはよく読んでいた。その視線に気づいた爺は、
「俳句を始めたんだよ、芭蕉になるのさ。こう見えても学生時代は一茶を敬愛していましてね。ふふふふ」
リクミはいかがわしい眼差しで爺を攻めてみる。こういう胡散臭さが爺の魅力かもとも思いながら。
「ほれ、ここ読んでごらん」
目を縫い潰したる幽霊に朝陽が差して白い
付箋が貼ってあるページを開くとおどろおどろしい幽霊の句が目に飛び込んできた。普通なら、幽霊は夜に浮かび上がるものなのに、朝陽のなかで白いなんて、ハロウィンで吐しゃ物まみれになった渋谷の明け方じゃないでしょうねえ。でも目が見えんのか。激しい未練でもあるのかしら。もしかしたら、この女、自分が幽霊になっちゃってることに気づいてないの。半生幽霊。でも私も幽霊だし、アユムも私の目には幽霊でしかなかった。爺も突然現れた幽霊。元ダンも幽霊。みんな、幽霊に囲まれて生きている。
「これって俳句ですか。というか字余りひどい」
季語と字余り、これだけはリクミも学校で習って覚えていた。
「言葉からはじめる現象学ってとこでしょうね。」いきなり難しくなる。「ここでは読み手が巻き込まれている。因果律をはなれ、然ながら、心象がある。観る者のなかにしか存在しえない。それが幽霊といいたいのかもしれない。リクミさんはロラン・バルトをご存知か」